企画の立て方、赤塚不二夫の場合。
こんにちは、おかのです。
赤塚不二夫といえば、ギャグ漫画の巨匠です。
今日は、彼がギャグ漫画をどのように企画したのかを公表します。
『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』と、ヒット作を連発でした赤塚先生。
実は、赤塚不二夫さん。
まったく売れない漫画家でした。
それが、ある「ヒラメキ」による企画立案のお陰で、売れっ子漫画家になったのです。
どんな企画「ヒラメキ」から、その企画を得たのか。
いっしょに、見てみましょう。
あなたが、企画を立てる時、何かを触発してくれるかもしれません。
漫画家・赤塚不二夫さんの「ヒラメキ」
「過剰品質」、
という言葉をご存知ですか?
すでに完成しているモノを、これでは、まだ心配だと、過度にいじくり回した結果、かえって悪くしてしまうことを言います。
実は、理想とする「夢」の品質にこだわり過ぎ、不遇に喘いでいる場合があるのです。いわば、「夢の過剰品質」です。
過剰品質についての警句があります。
『最初から多くのことを成し遂げようとし、極端な努力をすると、たちまちのうちに、すべてを放棄することになる』
これは、世界一の喜劇王と呼ばれていた、チャップリンの言葉です。
そして、チャップリンを笑いの師として仰いでいたのが、日本一のギャグ漫画家とよばれていた、赤塚不二夫さんです。
赤塚不二夫さんといえば、代表作の「おそ松くん」や「天才バカボン」で一世を風靡した、ギャグ漫画の巨匠です。
実は、そこへたどり着くまでの道のりは平坦ではなく、大変な逆境をくぐり抜けなければなりませんでした。一時は不遇と貧乏に喘ぎ、漫画家廃業も覚悟したことがあったのです。
しかし、先輩漫画家の「ひとこと」から、不遇な人生を一発大逆転する、「ヒラメキ」を得ます。
そして、素晴らしい企画が立ち上がりました。
さて、その「ひとこと」とは・・・、その「ヒラメキ」とは・・・。
その「企画」とは。
赤塚不二夫さんの履歴。
赤塚不二夫さんは、昭和10年に満州国で生まれ、終戦後、父の故郷である新潟に移ります。
中学を卒業後、映画の看板を制作するペンキ屋さんに就職します。
仕事柄、映画を見る機会に恵まれ、このとき、赤塚ギャグの原風景といもいうべき、チャップリンの喜劇と出会います。
18歳のとき、漫画家を目指し意気揚々と上京、町工場で働きながら、漫画の持ち込みを始めます。
21歳のとき、今や漫画界では伝説となっている「トキワ荘」の住人となります。
ところが、「トキワ荘」に入ったことで、
明るい未来が一気に暗転してしまいます。
それはなぜか!?
答えは。
「まわり中が漫画エリートだらけだった」です。
「トキワ荘」は、学生下宿のような安アパートですが、手塚治虫が、その一室を仕事場として借りた後、それに惹き付けられるように、若手の漫画家たちが続々と住み始めたのです。
その中から、将来の大漫画家たちが続々と誕生していきます。
「ドラえもん」の藤子・F・不二雄、「怪物くん」の藤子不二雄A「仮面ライダー」の石ノ森章太郎、「スポーツマン金太郎」の寺田ヒロオ(初めて聞く名前かもしれませんが、講談社まんが賞・第一回授賞者です)など、才能豊かな実力者たちがひしめきあっていたのです。
そんな環境の中に、絵もアイデアも、彼らより完成度の低かった、赤塚青年が飛び込んだのです。ショックを受けて当然です。
例えてみれば、プロ野球の選手を目指す少年が、甲子園を目指して、意気揚々と全寮制の高校に入学。同室になったのが、なんと、イチロー、松井秀喜、ダルビッシュ、田中将大だったようなものです。
これでは、人並み以上の才能や技術がある人でも、茫然自失、意気消沈、自信喪失です。
大家になってからの赤塚さんは、芸能人との交流が派手になり、テレビや舞台にも進出。タモリさんとのローソクショーなど、芸人さんも圧倒されるような、ハチャメチャなパフォーマンスを繰り広げ話題になりました。
ちなみに、無名時代のタモリさんを発掘し、芸能界に売り込んだのが、赤塚さんだというのは有名な話。赤塚氏の葬儀で、タモリさんは「私もあなたの作った作品の一つです」と述べた。
まさにバカボンのパパを地でゆく、破天荒なキャラでした。
若き日の赤塚さんは、恥ずかしがり屋で、無口。
ところが、若き日の赤塚さんは、
それとは正反対のキャラだったのです。
恥ずかしがり屋で、無口。
気弱で、繊細。
いつも人の陰に隠れ、人と会えば俯いてしまう。
見た目も、色白の美青年。
後年の、過激な赤塚さんからは、まるでイメージができません。
「自信」の、「ある」、「なし」で、人間は、こんなにも大きく変わってしまうんですね。
とにかく、トキワ荘時代の赤塚さん、完全に自信を喪失していました。
さて、隣部屋に住む、天才、石森章太郎は、高校を卒業後、大メジャーである、講談社で連載を開始、18歳にして、超売れっ子の漫画家となります。
さらに、藤子不二雄の二人組、さらに寺田ヒロオも人気作家に。
それに比べ、赤塚さんは、いつまで経っても売れず、貧困に喘ぎます。
夢は、メジャーな雑誌で、ギャグ漫画を連載することです。
ところが、「どの雑誌も、すでに大家のギャグ漫画家が描いている、まだまだ未熟な自分では、とても入り込む余地がない・・・」と萎縮し、メジャーへの挑戦を先延ばしにしてしまいます。
そして、持ち込みを躊躇する最大の原因は、心のよりどころである、ギャグ漫画を否定されたときの、恐怖でした。
当時、雑誌の仕事が取れない漫画家は、
マイナーな貸本業界で、
稼ぐしかありませんでした。
昭和30年代には、街のあちこちに貸本屋さんがありました。
レンタルビデオ店の原型で、ビデオの代わりに、本を有料で貸し出していました。
貸本の出版社の原稿料は劣悪で、漫画家が、毎月一冊、必死で単行本を描いても、食べるのがやっと、という悲惨さでした。
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」では、貸本時代の水木しげる氏の、悪戦苦闘ぶりがリアルに紹介されていました。
赤塚青年も、貧乏漫画家のお定まりで、やはり仕事のない、友人の漫画家が紹介してくれた、貸本出版社に持ち込みを始めます。その友達は、後に伝説の大家となる「つげ義春」さん、でした。
そこの社長が、当時流行っていた、「悲しい少女漫画を描くなら使ってやる」。
赤塚さん、本当はギャグ漫画を描きたいのですが、なにしろ仕事を貰いにいっている身、卑屈に相手の言いなりになるしかありません。
そんな事情で、漫画家としてのデビューは、『嵐をこえて』という、悲しい少女漫画でした。
二作目は『心の花園』。いやいや描いているので、筆が進みません。数ヶ月に一冊しか描けず、家賃を払うのが精一杯、食費にまわすお金はありません。
それでも生きていられたのは、石森氏の、炊事係を引き受けていたからなのです。
18歳の石森氏は、親元にいたため、自炊の経験がありませんでした。おまけに超多忙だったので、その時間もありません。当時はコンビニや、ファミレスもなかったので、外食も不便でした。
そこで、時間はたっぷりあるが、お金がない赤塚さんと、時間はないが、お金はたっぷりある石森氏が、お互いの悩みを補い合うことにしたのです。
石森氏が、食費をすべて出す代わりに、赤塚さんが、炊事をすべて引き受けたのです。
その流れで、アシスタントもすることになってしまいました。
18歳の石森氏に、甲斐甲斐しく仕える21歳の赤塚さん。いつも二人が楽しそうにしているので、藤子不二雄のお二人は、その様子を「赤塚はまるで、石森の奥さんのようだった」と、述べています。
ここからは、私の想像ですが。
赤塚さん、エリートの石森氏と常に行動するのは、苦痛な面もあったはずです。
赤塚さんは、石森氏の活躍を心から喜び賞賛しました。ところが、その裏には、エリートの石森氏には気づかない、暗い思いもあったはずです。
石森氏の、運の良さ、才能や、経済力への嫉妬、怒り、それがゼロだったとは、とても思えません。
何よりも苦痛だったのは、天才ぶりをまざまざと見せ続けられ、その度、すでに傷だらけになっていた「自信」が、さらにズタズタになったのではないか、と・・・。
でも、人生が面白いのは、その石森氏が、赤塚さんの人生を大逆転するチャンスを運んで来ることになるのです。
この時期の赤塚さんは、逆境に喘ぎながらも、夢へ努力は怠りませんでした。
毎晩、どんなに疲れていても、ギャグのアイデアをノートに書き付けるまでは、決して寝ないというノルマを課していました。
そのアイデアを雑誌社に持ち込めば、充分に採用されたはずです。
これは歴史が証明しています。
何しろ、その数ヶ月後には、ギャグ漫画家として大ブレークしたのですから。
死に物狂いの努力
ところが、赤塚さん、
死に物狂いの努力が、
暴走してしまいます。
「こんなアイデアでは、まだまだ不安だ、もっともっと、いいアイデアを作らなければ。もっともっとスキルアップしなければ」とますます自分にプレシャーをかけていきます。
実は、努力の飽和状態なのだが、本人にはそれがわからない。努力すればするほど、ますます状況が悪化するという、「過剰品質」の罠に捕われていたのです。
さて、いやいや描いた貸本漫画では、人気が出るはずがありません。ついには、その仕事さえも切られてしまいます。
そうなると、家賃さえも払えなくなり、赤塚さんは崖っぷちまで追い詰められてしまいます。
そんなある日、漫画家仲間の長谷邦夫氏に、こんなことを告白します。
「ボクね、石森氏と椎名町を歩いていると、いつの間にか電信柱と塀の間を歩いているんだ・・・・・いやんなっちゃう」。
病的な自信喪失状態です。
ついには、将来を悲観し、漫画家廃業を廃業し、喫茶店のウエイターになろうとまで思い詰めます。
切羽詰まった赤塚さんは、トキワ荘で、みんなから頼りにされていた漫画家、テラさんこと、寺田ヒロオ氏に苦境を打ち明けます。
寺田氏は、赤塚さんの描きかけの少女漫画に目を通すと、おもむろにこう切り出します。
「赤塚くん、ぼくだったら、この一本のストーリーで、五本の漫画を描くな」
「やはり、詰め込み過ぎですか?」
「そうだね」
「・・・・・」
そして、
ついに、
ヒラメキがやってきます。
(^-^)ノ
赤塚不二夫さんの唸るヒラメキ
「そうか!自分の持っている、いいところを、全部出そうとしていたんだ」
もし、あなたが、営業やセールスに携わっているのなら、このヒラメキ、あなたにも使えます。
「自分の持っている、いいところを、全部出そうとしていた」
これを、セールスに例えてみれば、すぐにわかります。
セールスは、自信がないと、つい売り込みすぎてしまうのが常です。売らなければいけないという、強迫観念から出る緊張感。
断られないようにという恐怖から、しゃべり続けなければいられない。何が何でも、いいところを、全部説明しようと、相手の気持ちや都合は無視しての大演説。
恋愛でも同じです。
良く見せたいと、自慢と虚勢の押し売り。これだけ熱心なのだという、努力と誠意のアピール。それを相手に認めてくださいという、媚とへつらい。
これでは、売れるはずがありません。これでは、モテるはずがありません。
赤塚さんは、自分の漫画は、媚とへつらい、虚勢と自慢だったと、一瞬で理解します。
ここから、漫画を描く姿勢が一気に変わります。「読者を面白がらせる前に、自分が面白がろう」、「力を抜き楽しく描こう、その雰囲気が読者に伝わるはずだ」と。
こんな名言があります。
『いい作品には、必ず媚びない誇りがあり、同時に包み込むような優しさがある』
根本浩(文筆家、世界一受けたい授業の漢字講師)
みなさんが、出版のために、企画を立てるとき、ほとんどの方が、余りにも入れ込み過ぎています。
デビュー作に、自分の全てを盛り込もうとします。
気持ちは、とても良くわかりますが、その意気込みが過ぎると、何でもかんでも詰め込み過ぎの、うっとうしいものになります。
企画の視点が、とてもボケたものになります。
「企画は引き算」にする。
これを意識すると、採用される企画を作りやすくなります。
企画は、絞り込めば絞り込むほど、その分読者に深くささるからです。
逆に、たし算で考えてしまうと、鋭さがどんどん削られ、誰にも見向きもされない企画が出来上がります。
出版デビューするためには、思いきって引き算しまくると著者デビューが早まります。
デビュー作は、あえて、一点に絞り込んだものを書いた方が、出版社から採用されやすくなります。
ついに大ブレーク。
話を元に戻します。
そんな折、石森氏の部屋に、秋田書店の名編集者、壁村氏が飛び込んできます。
来月号の漫画月刊誌「まんが王」に、穴が空いてしまい、ピンチヒッターを紹介してくれというのです。
それも、ギャグ漫画を描ける作家との注文です。
石森氏は、即、隣の部屋の壁を叩き、赤塚さんを呼び寄せます。
壁村氏は、赤塚さんに「読み切りで、8pのギャグ漫画を、明日の朝までに仕上げて欲しい」と依頼をします。
ここで、ついに、ギャグ漫画を描くという、企画が立案されたのです。
なんと、「ヒラメキ」は、編集者と、石森氏が運んできてくれたのです。
「ヒラメキ」は、こうして、人が運んできてくれる場合もあるのです。
あまりにも時間がタイトですが、赤塚さん渡りに船と喜んで引き受けます。
そして、この時間のなさも、幸いします。充分にアイデアを練る暇がありません。裏返していえば、過剰品質に、なりようがないのです。
ここで活きたのが、毎晩書いていた、アイデアノートです。
「よし、これでいこうと」テーマが、瞬時に決まります。タイトルは「ナマちゃん」、生意気な男の子が主役のギャグです。
赤塚さん、無心に、楽しく、リラックスして描きます。
そして、2週間後・・・・。赤塚さんに掲載誌が送られてきます。
初めて自分の漫画が、大手の雑誌に掲載されたのです。ドキドキしながら、ページをくくります。
ありました!
「ナマちゃん」
なんと、そのタイトルの上には、こう書かれていました。
〈新れんさいまんが!!〉
一回だけの読み切りだったはずが、
編集部での評判が良く、連載に格上げされていたのです。
赤塚さん、嬉し泣きをしながら、石森氏の部屋に飛び込みます。石森氏、我がことのように、大喜びしてくれます。
ギャグ漫画家、赤塚不二夫誕生の瞬間です。
有名になってからの赤塚先生、世間的には過激さばかりの、イメージが残っていますが、貧乏漫画家時代からの付き合いがある、丸山明氏(石森章太郎などを育てた名編集者)は、それに異を唱え、次のように述べています。
「周りに気を使う赤塚は、ひとが期待するものを敏感に感じ取って、それに応えようと、少々オーバーでもふざけた演技をしていたのではないか」と。
私も、その通りだと感じています。私が22歳のとき、赤塚先生から、アイデアスタッフにならないかと誘われ、仕事場に訪問させていただいたことがありました。
赤塚先生は大先輩なのに、まだ新人の漫画家である私に、恥ずかしそうに、そして、とても丁寧に接してくれました。
そこには、テレビで視たような過激さは、ひとかけらもありませんでした。
とても繊細な気遣いのある方でした。
私がその直後に講談社からデビューをしたため、その話は白紙になりましたが、今でも心に残っている、大切な思い出です。
- 関連名言
『正当以上の卑屈な努力までする必要はない』。
松下幸之助
『勝ち負けは努力の要素で左右されるほど甘くない』
明石家さんま
『好きなことをやるのは当たり前。
だって、その方が頑張れるもの。
でも、それだけじゃダメ。
頭を使って、知恵を振り絞らないと。
成功するんだという強い意志を持って努力しないと』
水木しげる
「ヒラメキ」による、企画の立案は、今回ご紹介したような形でもやってきます。
ポイントは、常に何かを思い続けることです。
ただし、思い詰めないことです。
楽しい気持ちで、思い続けることです。
そんな雰囲気のところに、「ヒラメキ」は、訪れてきます。
それでは、また、お会いしましょう。
さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ
おかのきんや拝
企画の立て方。さくらももこさんの、「聖まる子伝」はこうして「ヒラメキ」を得た。
こんにちは。
おかのきんやです。
さて、今回は、私の企画がどうやってひらめいたのか、その実例を一つ、見ていただきます。
それは、さくらももこさんの、「聖まる子伝」という本です。
企画のひらめきを得るまでの詳細なプロセスを見ていただければ、何か、感じていただけるかもしれません。
「ヒラメキ」と努力について
努力をすれば、
どんな夢でも叶うのか?
『努力しても夢は叶わない。
やればできると言うがそれは成功者の言い分であり、
例えばアスリートとして成功するためには、
アスリート向きの体で生まれたかどうかが、99%重要なことだ』
努力について、ツイッターでこう述べたのは、為末大さん(男子元陸上競技選手・400mハードル日本記録保持者)です。
これに対し、
「それを言ったら身も蓋もない」、
「努力をバカにするな」的な批判が殺到、ブログが炎上しました。
あなたは、この論争、どちらの意見を支持しますか?
「ヒラメキ」までのプロセス。
さて……。
これから、私が、どのようなプロセスを経て「ヒラメキ」を得たのか、
その体験を、お話させていただきます。
現在、私は67歳です。池上彰さんと、ほぼ同世代です。
私は20歳のときに漫画家としてデビューしました。
ペンネームは、おかのきんやです。
講談社の[週刊少女フレンド(少年マガジンの姉妹誌)]で、毎週ギャグ漫画を連載開始。とても順調なスタートでした。
ところが、7年目辺りから、人気が下降し始めました。
原因は結婚です。
独身時代は、気楽に、楽しく描いていました、趣味がお金になるという感じです。
家庭を持つと、その趣味が、いつの間にか、生活費を稼ぐための仕事に変っていたのです。
趣味が仕事になってしまうと、楽しさが苦しさに変わります。描いている本人が楽しくないから、当然人気が落ちます。
人気が落ちるごとに、ページ数が減らされ収入が激減、生活が一気に苦しくなりました。
そんな私の状況とは逆に、昨日まで同じ貧乏漫画家だった友人たちが、次々とヒットを飛ばしていきます。
ある友人は、年収70万しかなく、漫画家を廃業し、故郷へ帰る決心をしていました。
ところが、突然、大ヒットを飛ばしました。
年収は3000万になり、家を三軒も買いました。
さらに別の友人漫画家で、四畳半のアパートに住み、私のアシスタントをしてくれていた青年がいました。
かれも、ヒット作を放ち、マンションをキャッシュで買いました。
さらに、購入した赤いスポーツカーを見せにきました。
大げさな誇張は一切ありません、すべて実話です。
一方こちらは、家賃の支払日がくる度、毎月ハラハラする経済状態。
だから、彼らの活躍ぶりを見る度に、嫉妬と劣等感を味わされ、とても苦痛でした。
「負けちゃいられない、僕も彼らのように輝きたい」と焦りました。
当時の私にとっては、ヒット作を出すことが、最大の夢となりました。
その夢を叶えるために、死に物狂いの努力を始めました。
ところがショックなことに、なぜか、努力をすればするほど、さらに人気が落ちていったのです。
「こんなに努力してもだめだなんて、結局は才能だろうか……」と、自信を失いました。
あらためて、努力論争について。
ここで、冒頭の、
努力論争に戻ります。
人生の達人、野村元監督が的確な答えを示しています。
「努力は大切である。
が、それだけでは大きな成果が得られるとは限らない。
肝心なのは、正しい努力をしているかどうかだ」
『野村の流儀 人生の教えとなる257の言葉』
至言です、私の拙い体験からも、努力には、[正しい努力]と[間違った努力]の、二種類があると確信しています。
今振り返るとわかるのですが、当時の私は、現実の厳しさを直視できず、実は[努力に逃避]していたのです。
努力していれば、とりあえずは、自分にも、周りにも、言い訳ができたからです。
明らかに[間違った努力]をしていたのです。
だから、結果が出なかったのは、当然なのです。
人は、往々にして、逆境のとき、つい[間違った努力]をしてしまいがちです。
そして、[的外れの努力]や、[苦し紛れの努力]は、「骨折り損のくたびれ儲け」どころか、自らの運命を破壊してしまう危険性さえあるのです。
戦力外通告。
35歳の時……。
ついに、恐れていたことが起こりました。
週刊誌の連載を、打ち切られてしまったのです。
その日から、突然収入がゼロになりました。
焦りに焦り、なんとか仕事を作らねばと、急いで作品を描き、持ち込みを始めました。
メジャーな雑誌をリストラされた、ほとんどの漫画家がたどるコースが、マイナーな雑誌へのシフトチェンジです。
原稿料は、半額以下になるのですが、それでも背に腹は代えられません。
戦力外通告を受けた、プロ野球の選手が、独立リーグに流れていくのと似ています。
マイナー雑誌に持ち込みに行くと、編集者に窮状を見透かされ、作品をミソクソに叩かれました。
さらに人格まで否定され、暗澹たる気分になりました。
その惨めさ、屈辱感は、あてどのない持ち込み作品を描く、物理的な重労働よりも、遥かにきつい、精神的な重労働でした。
そんな思いまでして、やっと掴んだ仕事も、人気が出ず、数ヶ月で連載打ち切りです。
別の社で、なんとか連載が一年続き、ほっとしたのもつかの間、会社そのものが倒産、原稿料は踏み倒されてしまいました。
まさに、「弱り目に祟り目」、「泣きっ面に蜂」です。
とにかく、漫画界で生き延びていくために、考えられる限りの手はすべて打ちました。
あの手この手で仕事を作り出しました。
日系ブラジル人のための、ポルトガル語の新聞に、一コマ漫画を描いたこともあります。
宗教系の雑誌に描いたこともあります。
ネットワークビジネスの漫画も描きました。
アダルト系の漫画も描きました。
そんな、泥沼の中で悪戦苦闘するような繰り返しが、かなり長い間続きました。
しかし、ついには、命綱だった、マイナー雑誌からもリストラ。
ふと気付くと、既に50歳。
「この歳では、もう人生を巻き返すことは無理だ」と、
絶望的になりました。
50歳じゃ、人生を巻き返すのはもう遅い?
窮状を察した友人が、健康食品の漫画を制作している会社を紹介してくれました。
ところがそこは、マイナー雑誌で過ごしていた頃が、極楽に思えるほど、過酷な世界でした。
藁にもすがる思いで、古びたマンションの一室にある事務所をたずねると、井筒監督にそっくりな坊主頭の強面社長が待ち構えていました。
三人の社員も全員坊主、一瞬、[浪速金融道]の世界に迷い込んでしまったような気がしました。
出版社では、嘘でも、先生扱いしてくれました。
内心では、「センセ」かもしれませんが、とりあえず作家として扱ってくれました。
それは、マイナー雑誌でも同じでした。
ところが、ここの社長は、まったく違いました。
「おまえが、どこで、なに描いとったか知らんが、うちでは一切関係ない!」と、関西弁でまくしたててきました。
先生どころか、[おかのきん○ま]と、呼ばれる始末です。
広告先の会社へ、社長に同行し訪問すると、大勢のOLの前で、「この漫画家、おかのきん○まって、いうんですわ。ガハハハハ!」と大声で紹介し、笑いを取るのです。
その屈辱感が、私のプライドをズタズタに傷つけました。
そんな扱いをされても、逃げ出すことはできません、私の居場所は、もう、そこしか残されていなかったのです。
そんな思いをしながら事務所に通っても、仕事を貰えるのは数ヶ月に一度、それもマイナー雑誌よりも低い金額です。
とても生活を支えることはできません。サラ金でお金を借りながらの、自転車操業へと転落です。
私の人生の厳冬期でした……。
ターニングポイント。
そして、まさに季節も二月のある日、また別の友人が、私の苦境知り、声をかけてくれました。(友人という存在は、つくづくありがたいものだと感じています)。
つだゆみさんという、女性の漫画家です。
ゆみさんが、こう、話してくれました。
「天才工場という編集プロダクションで、書籍の企画を作る会を催します。おかのさんは、アイデアを作ることが得意だから、それに参加してみてはいかがですか?」
というお誘いでした。
漫画とはまったく別のジャンルですが、
「もしかしたら、何か仕事に繋がるかもしれない」という、淡い期待を抱き、今にも雪の振りそうな夕暮れ、池袋にある天才工場の事務所を訪ねました。
ドアを開けた途端、その熱気に圧倒されました。
既に会議は始まっていて、テンションの高い、会話が、部屋の中を嵐のように吹きまくっていました。
30人近くの、フリーの編集者やライターが、天才工場の主催者、吉田浩氏を車座になって取り巻き、自信ありげに、それぞれの企画を披露しあっていたのです。
私には、その場の全員が、とても眩しく輝いて見えました。
吉田浩氏は、30年間で1600冊の書籍をプロデュースされている、業界NO.1の出版プロデューサーです。
私の存在など誰も気に留めません、部屋の片隅に座り、耳を傾けていると、会議の内容がおぼろげにわかりました。
集英社から出版されている、大ヒットした漫画を二次利用して、書籍化する企画を立てていたのです。
スター漫画家たちの企画を立てる、それがわかった途端、自分のみすぼらしさが増幅されました。
その場にいた人たちは、全員、建設的な気持ちで、企画作りに取り組んでいました。
私だけは、真反対の気持ちでした。
編集者やライターさんにとって、漫画家は単なる素材です。
ところが私にとって漫画家は、同業者であり、競争相手です。
売れない漫画家が、売れっ子の漫画家をより輝かせるための企画を立てる。
これは、なんともつらいことです。
恋愛に例えれば、その感じがわかっていただけるかもしれません。
あなたが結婚したいと思っている、大好きな女性がいるとします。
その女性のために、自分よりも、遥かにすばらしい男性を紹介するようなものです。
それと同じような、なんとも切なく、カナシイ気持ちで胸がふさがり、思考が停止してしまいました。
三時間後……。
何一つ発言できないまま、その場を後にしました。
木枯らしの中で、
「来るんじゃなかった、かえって惨めになった」と、後悔しました。
天才工場での出来事が、あまりに強烈だったので、その夜、布団の中で、
「もう、何も出来そうなことはない、万策尽きた・・・」
と観念した途端、心がポキリと音をたてて折れました。
明け方の不思議な出来事。
その明け方、暗闇の中、木枯らしが窓を激しく叩く音で、目が覚めかけました。
うつらうつらしていると、なぜか心の中で、不思議な自問自答が始まりました。
(あなたは、すべての方法を試した、やりつくした、もう、これ以上は、どうしようもないと絶望していますね)
(その通りです、もう、疲れ果てました、友達は、どんどん売れっ子になりました。
僕は、もう初老です、それなのに、いまだに借金生活です、ここからの巻き返しはもうありえません、結局、才能がなかったのかもしれません。
とても惨めです、とても悔しいです、とても切ないです、気が狂いそうです)
(あなたは、すべての方法を、本当にやりつくしたでしょうか?)
(え?・・・)
(あなたは、たった一つだけ、まだ、やっていないことがあります)
(え!・・・、たった一つだけ、やっていないことですか?そんなものが、まだありますか?)
(あります)
(それは、なんですか?)
そして、このとき、私の人生を大逆転する「ヒラメキ」がやってきます。
私が、もう一人の私より得た「ヒラメキ」がこれです。
「ヒラメキ」がやってきた。
『あなたが、たった一つだけやっていないこと。
それは、人を輝かせることです』
(人を輝かせること!?・・・・、確かに、そんなことは夢にも思いませんでした)
(ね、一つだけ、やっていないことが、ありましたね。あなたは今まで、ヒット作を出したい、売れっ子になりたい、光り輝きたいと思い続けてきました。でも、人を輝かせることだけは、まだしていませんね)
(確かにそうです。でも、こんなに、落ちぶれている僕が、人を輝かすなんて、できっこないじゃないですか)
(出来ます!靴墨になればいいのです)
(えっ!?)
(靴墨は真っ黒です、
でも靴をピカピカに光り輝かせることができます)
(あ!なるほど!確かにそうですね)
(あなたは、今日から靴墨になればいいのです)
(あ、それなら、今の僕でも、できそうです)
(とにかく、だまされたと思って、試して見なさい)
(わかりました、どうせ僕の人生は、もう死んでいるようなものです、最後に、それを試してみます)。
人を輝かせる。心の視点が、そう変わった途端、スター漫画家に対する、コンプレックスやモヤモヤが消え失せ、夕べの会議のアイデアが、溢れるように浮かんできました。
図々しくも、既に、強烈に光り輝いている[さくらももこ]さんを、さらに光り輝かせようと思ったのです。
布団の中で、アイデアを考えていると、ワクワクが盛り上がり、思わず飛び起き、机に向かっていました。
漫画家になってから、数十年ぶりに、我を忘れアイデアを練る楽しさに没頭しました。
そして五分後、[聖まるこ伝・ちびまる子ちゃん名言集]という企画書が完成していました。
あなたが、もし、万策尽きたと思っても、それは、あなたの思い込みかもしれません。
人は無意識に、自分の思い込みの枠の中だけで、考えを巡らせているからです。
そんなときには、いったん自分から離れ、あなたが信頼できる人に、アドバイスを求めるのも手です。
あなたが思いもしなかった、対処法を気付かされる場合があります。
結局……。
集英社向けの企画書は100本ほど集まり、吉田さんが、その中から10本をセレクトし、集英社にプレゼンしました。
集英社側で、さらに絞り込み、最終的に、たった一冊だけが書籍化されました。
その一冊が、この本。
「聖まるこ伝」だったのです。
さらに、発行部数6万部のベストセラーという、十分な結果も出たのです。
楽に愉しく、わずか5分で作り上げた企画の印税は、その前年、悪戦苦闘して得た年収を軽く超えていました。
私はこの結果から、向き不向き、適材適所が、如何に大事であるかを痛感しました。
あなたが、もし、
ご自分、適材適所を知りたいのなら、
それが確実にわかる方法があります。
それは、この二つです。
『人があなたにさせたいこと』
そして、
『あなたに向いていると薦めてくれること』です。
自分の向き不向きは、意外と見えないものです。
人はあなたの知らない長所を教えてくれます。
それをテーマに、企画を立てれば、その企画が通る確率は、一気に高くなるはずです。
ただし、それらのアドバイスを鵜呑みにしないことです。
なぜなら。
本当に客観的に長所を指摘してくれる場合と、たんにその人の都合で、あなたにこうなって欲しいという願望から薦めてくれる場合があるからです。
それを見極める方法がこれです。
『世の中が、あなたにさせたいこと。世の中から歓迎されること』
世の中は、[結果]を通して、あなたの向き不向きを教えてくれます。
人が薦めてくれ、さらに結果が伴えば、それは間違いなく、あなたに向いていることです。
「聖まるこ伝」は、まさに[結果]で、私の進むべき方向を示してくれました。
さらに、人をプロデュースすることは、まさに「人を輝かせる」ことと一致します。
吉田さんの薦めもあり、企画のたまご屋さんという、出版プロデューサーが集まっている団体に入れてもらいました。
企画のたまご屋さんで、私は、それまで、まったく未知の分野だった、出版プロデューサーという道を歩み始めました。
このとき、始めて、出版プロデュースという言葉を知りました。
その後、たくさんの方の、企画、プロデュースさせていただきました。
私の企画書籍『人生の時間銀行』30000部。
これも、私の企画書籍『壁を越えられないときに教えてくれる一流の人のすごい考え方』50000部。
などを含む50冊以上の本を出版することができました。
そのほとんどが、みなさんのデビュー作となりました。
出版により、一躍人気作家となった人、本を出せたことにより自信を得た人、自分の思わぬ才能に気付き人生が開けた人、そんな、光り輝く人たちたちが、たくさん出てきました。
「人を輝かせる」について、
老婆心ながら、あえて一言。
「人を輝かせる」という行いは、善行を施すと報われるとか、運が良くなるというような、スピリチュアルなことではありません。
その方向へ進んでしまうと、自分以外の他に、ご利益を依存する、一種の宗教になってしまいます。
私の「人を輝かせる」という行為は、もっと現実的なことです。
自分との的確なコミュニケーションであり、私と関わる人との、いちばん建設的なコミュニケーション法なのです。
「人を輝かせる」というやり方には、絶大な効果があります。
ただし、もし、あなたが、「効果があるのなら、やってみよう」と、実行した場合、それは単なる模倣でしかありません。あなた自身の「ヒラメキ」ではありません。
今あなたが直面している難題を、考えに考え抜き、あなたのための「ヒラメキ」を得ることが、何よりも大切なのです。
そして、その結果の「ヒラメキ」が、私と同じ「人を輝かせる」だとしたら、とても嬉しいことです。
「ヒラメキ」名言。
最後に「ヒラメキ」についての関連名言で、しめさせていただきます。
複雑に考えすぎると、身動きが取れなくなります。
「ヒラメキ」なら、シンプルな突破口が見つかります。
そこで、この名言です。
『一番いいと思えるものを、
簡単に、
単純に考えることができれば、
逆境からの突破口を見出せる』
羽生善治
「ヒラメキ」こそが、人生の羅針盤です。
そこで、この名言です。
『創造的な領域では、基準とするものがない。
真っ暗闇で嵐が吹きすさぶ海原を、
羅針盤も持たず航海していくようなものだ。
そのような創造の領域では、自分自身の中に羅針盤を求めて、
方向を定め、進んでいかなければならない』
稲盛和夫(京セラ、第二電電創業者)
思いつめると、「ヒラメキ」が出なくなります。思いつめないことは、とても大事です。
そこで、この名言です。
『僕は思いつめないように、
思いつめないようにやってきたんです。
思いつめて、この企画がいま通らないと、
僕は生きている甲斐がないなんて思うと、
すぐ生きた甲斐がなくなっちゃいますから』
宮崎駿(アニメ映画監督)
それでは、また、お会いしましょう。
さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ
おかのきんや拝