出版寺子屋 本を出す方法

このブログでは、本を出す方法を、 丁寧にお伝えします。 商業出版で本を出すことを目指します。 また、 「誰でも本を書ける」 「誰でも本を出せる」的な無責任な言葉で、 高額な出版プロデュースに 誘導するようなこともいたしません。 このブログは、 そのような怪しさとは一切無縁です。 そのことは、ハッキリとお約束します。

企画のアイデアが出ない。 そんなときの、企画をひらめかすためのヒント。その2

 こんにちは、

のんびり出版プロデューサーの、

おかのきんやです。

前回に続き、今回も、

企画をひらめかせるためのヒントをお伝えします。

 

今回は、

企画の専門家が、

どう、「ヒラメキ」を得たのか、

そのプロセスを分析してみます。

 

みなさんが、企画を立てる時の、ご参考になれば幸いです。

 

 

 

 

自分の才能に不安を感じたときには。

    

       新人アートディレクター・佐藤さんの「ヒラメキ」

 

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 夢の実現に向かい、

毎日、歩み続けているあなた。

 

 順調に成果は上がっていますか?

 

 現在、理想とした目標には届いていますか?

どこかで足踏みをしていませんか?

 

 足踏みなら、心配ないのですが・・・。

もしかしたら、自分の才能に疑問をもったり、限界を感じたりしてはいませんか?

 

 どんな分野でも、能力を向上させようとしたとき、初期段階では、順調に能力が向上していきます。

しばらくの間は、右肩上がりの成長曲線を描きます。

 

 ところが、あるレベルに到達すると、努力に見合っただけの成果が現れなくなります。

いくら努力しても、それ以上のレベルに、ステップアップできなくなってしまうのです。

努力の飽和状態、いわゆる、伸び悩みです・・・。

 

 これは、成長しようとする人に、共通する悩みです。

だから、次のような至言があります。

 

『伸び悩んだり、才能の限界にぶつかったりしたとき、

「もうダメだ」とあきらめるか。

それとも、

「どうすればこれを突破できるか」と考えるか。

一流と二流は、まさにそこで分かれる』

     野村克也(雑誌「The21」)

 

 

 今回は、仕事に伸び悩み停滞している、新入社員のエピソードです。

 

 1965年生まれの佐藤くん、子どもの頃から絵を描くのが大好きでした。

多摩美術大学を卒業後、大手広告代理店、博報堂に就職しました。

職種は、広告の企画やデザインをする、アートディレクターです。

 

 佐藤くん、社内の移動はスケボーという、ちょっとトンガリ気味の新人です。

 

「とにかく、カッコいい広告を作りたい!!」

これが、佐藤くんの、理想であり、目標でした。

 

 だから仕事を振られると、

カッコいいものを作ろうと、一生懸命に取り組みました。

 

 無我夢中でやった結果は、凡打と三振の繰り返し。

 

 多分このままでは、どんなに経験を積んでも、平凡なアートディレクターとして、会社の中で埋もれてしまいます。

 

 佐藤くん、なんとか停滞モードを抜け出し、

ホームランバッターになりたいと望みます。

 

 

 

 佐藤くんが博報堂に就職したのは、同社で大活躍していた、カリスマ・アートディレクター、大貫卓也さんに憧れていたからです。

 

 ずいぶん昔になりますが、こんなCMを覚えていませんか?

マンモスを原始人の集団が追いかけまわしている、

日清カップヌードルの「hungry?」というCM。

遊園地、としまえんの「プール冷えてます」というCM。そんな話題作を連発していたのが大貫さんです。

 

 佐藤くん、憧れの人が同じ職場にいるのですから、ことあるごとに大貫さんの席に押しかけます。

 

 

 相変わらず、「カッコいい」作品を目指していた佐藤くん。

自作を大貫さんに見せ講評を請います。

 

 大貫さん、それを見て、さらりと一言・・・。

 

「カッコつけてて、すごいカッコ悪い」

 

 さすが、カリスマ・アートディレクター、“名コピー”で後輩へアドバイスです。

 

 佐藤くん、この一言に衝撃を受けます。

同時に、感動します。

 

 なぜなら、この一言に自分が停滞している原因。

そして、打開策が秘められていると、直感したからです。

 

打開策が秘められている。

 

 そして、その答えがわかる機会がすぐに訪れます。

大貫さんの広告チームに、若手として参加させてもらえたのです。

 

 商品は、最初から水で割ってあるウイスキー、

“サントリー・リザーブ&ウォーター”です。

 

 今までの、佐藤くんのやり方だと、さっそく、アイデア出し開始です。

どんなコピーにしたらインパクトがでるか。

どんな広告を打ったら話題になるか。

そんなことを、四苦八苦してひねり出します。

 

 ところが、大貫さんのやり方は、まったく違っていました。

アイデア出しの前に、

「そもそも、ウイスキーってものは、どういうものなんだ?」

「今、日本でのウイスキーの状況というのは、どうなんだ?」というようなディスカッションが延々と続くのです。

 

 佐藤くん、そのときの驚きを、後年このように述べています。

 

「それがすごくびっくりして、今までだと、ウイスキーはウイスキーでしょって感じで、それはわかった気になって置いておいて。

いきなり、自分がそれを売るためにはと、表現から考えていたんですが。

その表現の前を、こんなに考えるかってことを目の当たりにして・・・。

 それを何日もやるんですよ。

そうしていると段々問題点が見えてきたり、いろんなことが自然に見えてきて、いつの間にかそれがアイディアにつながっていったりして」。

 

 大貫先輩の仕事ぶりを目の当たりにした佐藤くん、自分ののアイデアの出し方と、大貫先輩のアイデアの出し方は、まるで正反対だといことに気付きます。

 

 佐藤くんは、商品が決まると、アイデアを無理矢理ひねり出し、付け足していたのです。

ところが、大貫先輩は、商品の本質を知ることで、実に自然な形で、商品からアイデアを引き出していたのです。

 

 まるで、名カウンセラーが、患者の悩みを親身に聞いてやっているうちに、患者さんが、自ら問題点に気付き、勝手に解決策をしゃべりだしてくれるような感じです。

 

 佐藤くんが広告に付け足していたのは、アイデアだけではありませんでした。

なんと、自分の“プライド”や“エゴ”も付け足していたのです。

広告は自分の作品である。

そう信じていた佐藤くん、広告に自分の才能と感性を、てんこ盛りにしていたのです。

だから、商品を見せるための、広告ではなく、自分を見せるための広告になっていたのでした。

 

 「僕の作品って、センスいいでしょ。こんなカッコいい作品作る僕って、すごいカッコいいでしょ。褒めて褒めて」

というオーラが発散していたのです。これでは、広告を見た誰もが引いてしまいます。

 

 この、勘違いを一言で表したのが、

「カッコつけてて、すごいカッコ悪い」だったのです。

佐藤くん、恥じ入りながら納得です。

 

 

 

 

「ヒラメキ」がやってきた。

 

 ここで・・・。

佐藤くんを大きく進化させる、

「ヒラメキ」がやってきます。

 

 

 佐藤くんの、唸る「ヒラメキ」。

 

『アイデアは付け足すものではなく、相手から引き出すものだ』

 

 

 

佐藤くん、この「ヒラメキ」を得てから、とても気が楽になりました。

 

 それまでは、

「アイディアが枯れちゃったらどうしよう・・・」という恐怖感が常にあったのです。

ところが、付け足すのではなく、引き出すのなら、永遠にアイディアが枯れる心配はない、ことを確信したのです。

 

 目の前にあるものに純粋に向き合っていけば、必ず答えが出るということを、偉大な先輩との仕事を通して学べたのです。

 

 例えば、お笑いの一発芸人は、その引き出しを使い切ってしまえば、それでおしまいです。

 

 ところが、同じお笑い芸人でも、明石家さんまさんのように、司会者というポジションに立てば、相手をいじることにより、相手から常に旬な笑いを引き出すことができるのです。

 さらに、それを相手が変わるごとにできるので、無限の笑いを引き出すことができるのです。

 

 無限にアイデアが出て、永遠にアイディアが枯れる心配はない、というのは、それとまったく同じことなのです。

 

 

 その気付きを、

実際に自分の仕事で、

確かめるチャンスがやってきました。 

   

1997年に発売されることになった、ホンダ・ステップワゴンの、広告を担当したのです。ホンダが社運を賭け、年間何十億円という広告予算を組んだ、大プロジェクトです。

 

 

 

 競合メーカー数社も、同じようなミニバンを発売予定でした。

当時のミニバンは、新機能がいかに凄いかをアピールする広告が常識でした。

しかし、佐藤くん、あえてその渦中には入らず、ミニバンの本質を突き詰め、アイデアを引き出す戦略を取ります。

 

 当時、家族で移動する車はセダンでしたが、それがミニバン化する過渡期でした。

「そういうことって、今、世の中にとってどういうことなのか?」

「家族一緒に、車で出かけるって、そもそもどういうことか?」

そんな、本質に迫っているうちに、

「性能ではなく、ライフスタイルを提案しよう!」という、アイデアが引き出されてきました。

 

 現在、子どもと熱心に遊んでくれる父親は、クールダディーとか呼ばれ、カッコいい存在なのですが、

昔は、妻や子どもを大切にし、一緒に過ごすことは、“家族サービス”と呼ばれ、小市民的なカッコ悪い行為だ、という雰囲気がありました。

 

 佐藤くんは、それを覆し、

「いや、家族サービスは、実はとても素敵なことなんだ」という、新しい価値観を、広告で提案することにししました。

 

 その本質を、シンボライズし、まとめあげたのが、このコピーです。

 

 〈あったらしいステップワゴンで、こどもといっしょに どこいこう。〉

 完成したCMは、性能ではなく、世界観を売る、ブランド広告のさきがけとなりました。

結果的に、この広告は大きな評判を呼び、HONDAステップワゴンは、ミニバン売り上げナンバーワンに輝いたのです。

 

 佐藤くんは、一躍、業界中から脚光を浴びることになります。

今や、日本を代表するアートディレクター、佐藤可士和さん、誕生の瞬間です。

 もし、あなたが、 佐藤可士和氏の名前を知らなくても、彼がブランディングを担当した、TSUTAYAのTカード、ユニクロのロゴ、楽天のロゴ、セブン&アイのロゴは、きっと目にしているはずです。

 

 佐藤さん、ステップアップどころか、スーパージャンプアップですね。

 

 

 

スキルアップ即、

ステップとは限らない。

 

 私は、二十歳で漫画家としてデビューしました。週刊誌の連載が五年ほど続きました。

連載が打ち切られることもなかったので、それなりの戦力にはなっていたのでしょが、ヒット作は出ませんでした。いわゆる鳴かず飛ばずの状態です。

 

 そこで、デビュー10年目に一念発起、スキルアップに取り組みました。絵がイマイチだったので、デッサンを基礎から勉強し直しました。

シナリオの教則本を読みあさり、ドラマの作り方を研究しました。

 

 ところが、いくら新しい技術を習得し、それを懸命に磨きあげても、状況は何も変わらなかったのです・・・。

 

 いまなら、わかるのですが、スキルアップしても、即ステップアップに繋がるとは、限らないのです。

 

 スキルアップは、「知識」の問題です。

 ステップアップは、「知恵」の問題です。

 

 知識がいくら増えても、私の成長度は、たかが知れていたのです。

なぜなら、私の“本質そのもの”が変わっていなかったからです。

 

 知恵は、人の“本質そのもの”を成長させます。

適切な知恵には、人を飛躍的にステップアップさせる力があるのです。

 

 どんな分野でも、ステップアップを望むときには、「“自分の本質”を成長させるのだ」という、明確な意志を持っことが大切なのです。

 

 「知識」を「知恵」で組み合わせると、「ヒラメキ」が訪れやすくなります。

だから、ステップアップするためには、常に、考えに考え抜く習慣をつけることです。

 

 佐藤可士和さんは、それを呼吸でもするように、日常生活の中でも自然にされているようです。

こんな詩のような、名言があります。

 

『旅行に出るとき、ふと思いついた。

「自分は直線(的なもの)が好きなんだ」と。

 

2泊3日の旅のあいだ、車を運転しながら、

食事をしながら、温泉につかりながら、ずっと考えた。

 

なんで、自分が直線が好きなのか。

何度も自問した。

 

ずっと独り言を繰り返していた。

帰り道、突然わかった。

「潔い」からなんだって。」

 

自分にとって、もっとも身近な言葉なのに、

なかなか気づかなかった。

こんなふうに、いつもデザインについて考えている』

 

  佐藤可士和クリエイティブ語録より。

 

いかがでしょうか。

きっと、みなさんの、クリエイティブな部分が触発されたのではないでしょうか。

 

それでは、また、お会いしましょう。

さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ

 

      おかのきんや拝

 

企画のアイデアが出ない。 そんなときの、企画をひらめかすためのヒント。

 

こんにちは、

のんびり出版プロデューサーの、

おかのきんやです。

 

いざ、

企画を立てようと思っても、

企画のアイデアがなかなか出なくて、悩んでいる。

という方も多いと思います。

 

きょうは、そんなときに、

企画をひらめかすためのヒントをお伝えします。

 

私は、企画を立案するためには、できるだけ、たくさんの引き出しがあったほうがいいと思います。

 

引き出しの数が多くなればなるほど、かけ算で、書けることが急激に増えてくるからです。

 

いろいろなひとの、人生を知るのも、

引き出しを増やす方法の一つです。

 

とくに、難問を解決した人の、人生プロセスには、

たくさん、触発されることがあります。

 

それが、直接、企画の立案に役立つわけではありませんが、

 

クリエイティブな部分が触発され、

企画の「ヒラメキ」を得ることが度々です。

 

今回は、そんな人たちの中から、

 

公務員・高野誠鮮さんの人生をご紹介します。

 

みなさんが、企画を立てる時の、ご参考になれば幸いです。

 

 

 

 

 

 「難題」

 

 

 あなたなら、

この「難題」どう対処しますか?

 

 あなたは、あるプロジェクトのリーダーに任命されました。

 

 ところが関係者は、「面倒なことは嫌だ」、「責任は取りたくない」と、誰も協力してくれません。

そのくせ、あなたがプランを立てると、批判ばかりします。

 おまけに予算はゼロです。

 

 そんな難題を、

実際に解決した人のエピソードです。

 

 市役所の臨時職員に、上司から難題が突きつけられました。

 「町おこしをせよ!ただし、おまえは臨時職員だから、予算はゼロだ」。

 そんな、無茶ぶりを「やります!」と、受けて立ったのが、東京からIターンしてきた、高野誠鮮さんという若者です。

 舞台は、能登半島の付け根にある、石川県の羽咋市です。

 

 高野青年が、いざ町おこしに取り組むと、当事者の「無関心」や、関係者の「批判」で、四面楚歌。

 ところが、そんな窮地を、ある「ヒラメキ」で見事に打破、町おこしを達成します。

 

 その功績が認められ、正式職員に昇格。

 高野さん、勢いに乗り、羽咋市の消滅しそうだった限界集落を世界中があっと驚く「ヒラメキ」で、

大活性化し、地域の救世主となりました。

 いまや、マスコミから「スーパー公務員」と名付けられ、全国から大注目されている人物です。

 

 

 

 

 

 すぐにでも、

「この町を離れたい」。

 

 高校生の高野さんは、いつもそう思っていました。

 高野さんの実家は羽咋市のお寺です。

 何もない地方都市です、若者にとっては、夢も希望もありません。

 

 だから、地元の高校を卒業後、都会に出るため、そして日蓮宗の僧侶になるため、立正大学に入学しました。

 在学中に、雑誌のライターや、テレビの構成作家としてデビュー、当時、人気番組だった『11PM』などを担当しました。

 

 ところが・・・、昭和50年、28歳の時、実家に呼び戻されます。

 お兄さんが埼玉県に家を建てることになり、高野さんが、お寺を継がざるを得なくなったのです。

 

 実家に戻ったものの、お父さんは、まだまだ元気。とりあえず、自分の食い扶持は稼ぐことにしました。ところがもうすぐ30歳、おまけに地方都市なので、就職先がない。

 

 幸い、役所で臨時職員を募集していたので、そこに滑り込みます。手取りが6万8000円、日給3000円にも満たない薄給ですが、背に腹は代えられません。

 

 華やかで、時間が不規則だったテレビ業界から、一転、堅苦しく、規則正しい、公務員生活を送ることになります。

 

 初年度は税務課勤務、翌年には、教育委員会の、社会教育課に異動し、青年教育を任されます。

与えられた命題は青年団による、「町おこし」でした。

 

高野さん、「町おこし」について、

常々大きな疑問を持っていました。

 

 それは、「町おこし」の掛け声ばかりで、一向に、何も動き出さない現実です。

 

 これは、あなたの周りにも、同じようなことがあるはずです。

 いざ新しいプロジェクトを始めようとすると、失敗を恐れ誰も行動しない。非難はするが、責任は取りたがらない。

 そのくせ、見栄えのいい企画書を作り、何度も会議を開くが。議題は常に、先送りになる。

 町内会から、大企業まで、どんな集団にも共通しています。

 

 

 当時、竹下登首相(DAIGOさんの祖父)が発案した、「ふるさと創生一億円事業」により、日本中で「町おこし」がブームとなっていました。羽咋市でも、頻繁に「町おこし大会」を文化会館で開催していました。内容は、権威のある著名人を呼んで、講演させるだけです。肝心の「町おこし」は、いっこうに始まりません。

 

 高野さん、その疑問を上司にたずねました。

 「いつまで、市民大会や、会議ばかりを、何十回もやるんですか?」

「余計なこと言うな!」と一喝されます。

 

 高野さん、若者らしいピュアな気持ちで反撃します。

 

 「公民館を使って、青年団で、町おこしをやってみていいですか」

「やれるもんなら、やってみろ!」

「やります!」

「けれど、おまえは臨時職員だから、予算なんかつかんぞ!」。

 

 高野さん、大見得を切ったものの、実は、泥臭いことと、グループ活動が大嫌いでした。青年団無用論者だったので、青年団活動をしたこともありませんでした。

 しかも予算は、0円。

 

 当事者の青年団はといえば、「青年団の活動に、補助金もくれない」、「新しい会館を作ってくれない」と、町のここが悪い、あそこが悪いと、文句ばかりです。

 

前門の虎、後門の狼。

さて、高野さん、

この難題どう解決するのでしょうか。

 

 

反撃開始

 

 テレビの構成作家時代の経験が、このときに活きました。

 「何かをやるときは、まず、情報収集が大事だ」という習慣が、身についていたのです。

 

 図書館にこもり、2~5万人までの市町村で、「町おこし」に成功したところと、失敗したところを114カ所調べました。

 すると、わかったことがありました。「町おこしとは、これだ!」という理念がしっかりしていた所は成功していたのです。それが、あいまいな所は失敗していました。

 

 高野さん、青年団の有志たちと、理念を考えに考え抜きました。

そして出した結論がこれです。

 

『青年団は、評論家になってはいけない』。

 

 その時点での青年団は、不平不満を述べ、あれこれ要求するが、自分からは何もしない、駄々っ子でした。そんな青年団は、町の大人からすれば、あってもなくてもいい、どうでもいい存在でした。

これでは、自分たちの要求を、大人たちに無視されても当然です。

 

 町への不満の原因は、実は自分たち自身に問題があったのだと気付いたのです。だから、もう評論家は止め、自分たちで行動を起こすことにした。

 

 まず、「町づくり」の成功例を見習い、理念を立てました。

目標は「気持ちの良い町」です。

 

 お金がなくたっていい。道路が整備されてなくたっていい。近代的な施設がなくたっていい。

それでも、気持ちのいい人間がいるところが「気持ちの良い町」です。

 「気持ちのいい人」、「気持ちの良い町」にするためには、目に見えない「心の部分」を、大切にしなければなりません。

 

 

 そして、「ヒラメキ」がやってきます。

 

高野誠鮮さんの、唸るヒラメキ。

 

 

『だったら「心おこし」を最初にやらなきゃいけない』。

 

 

 「心おこし」、別の言い方をすれば、「人を自ら動かす方法」です。

その神髄を、見事に喝破している人がいます。

 

『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

褒めてやらねば、人は動かじ』

 山本五十六(連合艦隊司令長官

 

 高野さんも、まず、自分たちで、やってみせることにしました。

 

 具体的な「心おこし」として、羽咋市の良いところ、誇れるところを青年団で探しました。町の人たちに取材したり、公民館で町の歴史を調べたりしました。

 そして、青年団でお金を出し合い、『羽咋ギネスブック』という本を作り、市内の全戸に無料配布したのです。

 すると、いろんな反響が出てきたました。

「うちの漬物は羽咋で一番うまいんだ。『羽咋ギネスブック』に載せてよ」などと、名乗りを上げる、人が続々と出てきました。それまで、「町づくり」や青年団に無関心だった人が、勝手に参加してきて、町のコミュニケーションが活性化してきました。

 

 

 

 

UFO伝説

 

 さらに、高野さん、公民館で奇妙な公文書を見つけます。

 

羽咋には、お釜のような物体が、

自在に空を飛ぶ伝説があったのです。

 

これって、未確認飛行物体、UFOともとれます。

 

 高野さん鳥肌が立ちます。なぜなら、UFOなら得意中の得意なのです。テレビ業界にいた頃、UFO評論家の矢追順一さんと、UFO番組に関わっていたからです。まさに天の助けです。

このUFO伝説を「町おこし」に活用しない手はありません。

 

 とはいえ、こんな怪しげなプランに、真面目な役所が予算を出してくれるはずがありません。

これも、予算ゼロで決行することにしました。

 

 そこで、お金のかからない、著名人に手紙でアピールしようという、レター作戦を開始します。

なんとも図々しい話ですが、当時、世界を動かしていた、レーガン、サッチャー、ゴルバチョフを始め120人のVIPに、「羽咋でUFOによる町づくりを始めました。感想と激励のメッセージをください」と、辞書を引きながら手紙を書き、町の郵便局から投函したのです。

 驚くことに、ゴルバチョフ氏を始め、45%の人から返事が戻ってきました。

それを日本のマスコミに流すと、火が付き、一躍「UFOの町羽咋市」として認知されるようになりました。

 

 さらに、高野さんのアイデアで、青年団の一員だったうどん屋さんで「UFOうどん」を発売。

するとこれが、週刊誌に取り上げられ大ヒット。

こうなると町の人たちが、ほってはおきません、勝手に「心おこし」を始めます。

 

 UFOラーメン、UFOパン、UFOせんべいと、便乗する店が続々現れます。

その結果、経済的にも活性化する人が出てきて、ついに、市からの予算ゼロで、「町おこし」を達成してしまったのです。

 

 高野さんは、これらの実績により、35歳のとき、ついに、正式の職員として採用されます。

 

 

ついに正規の職員

 

 正規の職員になったあと、羽咋市長から「限界集落の神子原(みこはら)地区を、活性化して欲しい」という、厳命を受けます。

 限界集落とは、何も手を打たなければ消滅してしまう集落です。原因は貧困です。村の平均年収が87万円という低収入、当時の、全国平均年収の5分の1です、これでは村が廃れて当然です。

 

 高野さんが、調査をすると、実は、神子原地区のお米は、かつて日経BPの記事で、全国美味しいお米ベストテンの3位に選ばれたことがありました。

 それなのに、こんなに貧しいのは、本来の価値よりも安い値段で、農協に買い上げてもらっていたからです。

 

 そこで高野さん、農家の人を集め、お米の直売を提案します。

確かに直売にはメリットもあるが、リスクもあります。

 

またもや、集団の常。

農家の人々から、「批判」と「反対」の嵐です。

 

今までの経験で、それは織り込み済みです。そこで、自分で販売してみせると約束したのです。

 

 さて、どう売るか。

高野さん、「神子原」という地名に着目します、神の子の原です。

 そのとき、世界中があっと驚く奇策が「ヒラメキ」ます。

「ローマ法王に、手紙を出そう」。手紙の内容は、神つながりで、「キリストが住まう高原で出来た米を、献上させていただきます」。

 またもや、レター作戦です。町の郵便局から手紙を出します。

 3ヶ月後、驚くべきことに、日本のローマ法王庁の大使館から、OKの返事が来たのです。神子原のお米が、ローマ法王に献上されたニュースが、瞬く間に日本中に広がります。

 

 その途端に、注文が殺到、ひと月で3000万円を売り上げました。

 直売が成功したことにより、ぜひここで農業やりたいという、若者が増え、平成21年、ついに、

神子原地区は、限界集落から脱出したのです。

 

 最後に、神子原地区の救世主となった、高野さんの言葉です。

 

『人の役に立つのが役人だ』

 

高野さんの生き方、いかがでしょうか。

もし、みなさんの、

リエイティブな部分が触発されたのなら幸いです。

 

それでは、また、お会いしましょう。

さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ

 

      おかのきんや拝