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本を出す方法

このブログでは、本を出す方法を、 丁寧にお伝えします。 商業出版で本を出すことを目指します。 また、 「誰でも本を書ける」 「誰でも本を出せる」的な無責任な言葉で、 高額な出版プロデュースに 誘導するようなこともいたしません。 このブログは、 そのような怪しさとは一切無縁です。 そのことは、ハッキリとお約束します。

企画の立て方、赤塚不二夫の場合。

こんにちは、おかのです。  

 

赤塚不二夫といえば、ギャグ漫画の巨匠です。

 

今日は、彼がギャグ漫画をどのように企画したのかを公表します。

 

『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』と、ヒット作を連発でした赤塚先生。

 

実は、赤塚不二夫さん。

まったく売れない漫画家でした。

 

それが、ある「ヒラメキ」による企画立案のお陰で、売れっ子漫画家になったのです。

 

どんな企画「ヒラメキ」から、その企画を得たのか。

いっしょに、見てみましょう。

 

あなたが、企画を立てる時、何かを触発してくれるかもしれません。

 

 

 

 

漫画家・赤塚不二夫さんの「ヒラメキ」

 

 

 「過剰品質」、

という言葉をご存知ですか?

 

すでに完成しているモノを、これでは、まだ心配だと、過度にいじくり回した結果、かえって悪くしてしまうことを言います。

 

 実は、理想とする「夢」の品質にこだわり過ぎ、不遇に喘いでいる場合があるのです。いわば、「夢の過剰品質」です。 

 

 

 過剰品質についての警句があります。

 

『最初から多くのことを成し遂げようとし、極端な努力をすると、たちまちのうちに、すべてを放棄することになる』

 

 これは、世界一の喜劇王と呼ばれていた、チャップリンの言葉です。

 

 そして、チャップリンを笑いの師として仰いでいたのが、日本一のギャグ漫画家とよばれていた、赤塚不二夫さんです。

 

 

 赤塚不二夫さんといえば、代表作の「おそ松くん」や「天才バカボン」で一世を風靡した、ギャグ漫画の巨匠です。

 実は、そこへたどり着くまでの道のりは平坦ではなく、大変な逆境をくぐり抜けなければなりませんでした。一時は不遇と貧乏に喘ぎ、漫画家廃業も覚悟したことがあったのです。

 

 しかし、先輩漫画家の「ひとこと」から、不遇な人生を一発大逆転する、「ヒラメキ」を得ます。

そして、素晴らしい企画が立ち上がりました。

 

 さて、その「ひとこと」とは・・・、その「ヒラメキ」とは・・・。

その「企画」とは。

 

 

 

赤塚不二夫さんの履歴。

 

 

 赤塚不二夫さんは、昭和10年に満州国で生まれ、終戦後、父の故郷である新潟に移ります。

 中学を卒業後、映画の看板を制作するペンキ屋さんに就職します。

仕事柄、映画を見る機会に恵まれ、このとき、赤塚ギャグの原風景といもいうべき、チャップリン喜劇と出会います。

 

 18歳のとき、漫画家を目指し意気揚々と上京、町工場で働きながら、漫画の持ち込みを始めます。

 

 21歳のとき、今や漫画界では伝説となっている「トキワ荘」の住人となります。

 

ところが、「トキワ荘」に入ったことで、

明るい未来が一気に暗転してしまいます。

 

 それはなぜか!?

 

 答えは。

「まわり中が漫画エリートだらけだった」です。

 

 「トキワ荘」は、学生下宿のような安アパートですが、手塚治虫が、その一室を仕事場として借りた後、それに惹き付けられるように、若手の漫画家たちが続々と住み始めたのです。

 

 その中から、将来の大漫画家たちが続々と誕生していきます。

 「ドラえもん」の藤子・F・不二雄、「怪物くん」の藤子不二雄A「仮面ライダー」の石ノ森章太郎、「スポーツマン金太郎」の寺田ヒロオ(初めて聞く名前かもしれませんが、講談社まんが賞・第一回授賞者です)など、才能豊かな実力者たちがひしめきあっていたのです。

 

 そんな環境の中に、絵もアイデアも、彼らより完成度の低かった、赤塚青年が飛び込んだのです。ショックを受けて当然です。

 

 

 例えてみれば、プロ野球の選手を目指す少年が、甲子園を目指して、意気揚々と全寮制の高校に入学。同室になったのが、なんと、イチロー、松井秀喜、ダルビッシュ、田中将大だったようなものです。

 

 これでは、人並み以上の才能や技術がある人でも、茫然自失、意気消沈、自信喪失です。

 

 

 大家になってからの赤塚さんは、芸能人との交流が派手になり、テレビや舞台にも進出。タモリさんとのローソクショーなど、芸人さんも圧倒されるような、ハチャメチャなパフォーマンスを繰り広げ話題になりました。

 ちなみに、無名時代のタモリさんを発掘し、芸能界に売り込んだのが、赤塚さんだというのは有名な話。赤塚氏の葬儀で、タモリさんは「私もあなたの作った作品の一つです」と述べた。

 

 まさにバカボンのパパを地でゆく、破天荒なキャラでした。

 

若き日の赤塚さんは、恥ずかしがり屋で、無口。

 

 

 ところが、若き日の赤塚さんは、

それとは正反対のキャラだったのです。

 

 恥ずかしがり屋で、無口。

 気弱で、繊細。

 いつも人の陰に隠れ、人と会えば俯いてしまう。

 見た目も、色白の美青年。

 

 後年の、過激な赤塚さんからは、まるでイメージができません。

 

 「自信」の、「ある」、「なし」で、人間は、こんなにも大きく変わってしまうんですね。

 

 

 とにかく、トキワ荘時代の赤塚さん、完全に自信を喪失していました。

 

 さて、隣部屋に住む、天才、石森章太郎は、高校を卒業後、大メジャーである、講談社で連載を開始、18歳にして、超売れっ子の漫画家となります。

 

 さらに、藤子不二雄の二人組、さらに寺田ヒロオも人気作家に。

 

 

 それに比べ、赤塚さんは、いつまで経っても売れず、貧困に喘ぎます。

 

 夢は、メジャーな雑誌で、ギャグ漫画を連載することです。

 ところが、「どの雑誌も、すでに大家のギャグ漫画家が描いている、まだまだ未熟な自分では、とても入り込む余地がない・・・」と萎縮し、メジャーへの挑戦を先延ばしにしてしまいます。

 そして、持ち込みを躊躇する最大の原因は、心のよりどころである、ギャグ漫画を否定されたときの、恐怖でした。

 

 

 当時、雑誌の仕事が取れない漫画家は、

マイナーな貸本業界で、

稼ぐしかありませんでした。

 

 昭和30年代には、街のあちこちに貸本屋さんがありました。

レンタルビデオ店の原型で、ビデオの代わりに、本を有料で貸し出していました。

 

貸本の出版社の原稿料は劣悪で、漫画家が、毎月一冊、必死で単行本を描いても、食べるのがやっと、という悲惨さでした。

 

 NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」では、貸本時代の水木しげる氏の、悪戦苦闘ぶりがリアルに紹介されていました。

 

 赤塚青年も、貧乏漫画家のお定まりで、やはり仕事のない、友人の漫画家が紹介してくれた、貸本出版社に持ち込みを始めます。その友達は、後に伝説の大家となる「つげ義春」さん、でした。

 

 そこの社長が、当時流行っていた、「悲しい少女漫画を描くなら使ってやる」。

 赤塚さん、本当はギャグ漫画を描きたいのですが、なにしろ仕事を貰いにいっている身、卑屈に相手の言いなりになるしかありません。

 

 

 そんな事情で、漫画家としてのデビューは、『嵐をこえて』という、悲しい少女漫画でした。

 二作目は『心の花園』。いやいや描いているので、筆が進みません。数ヶ月に一冊しか描けず、家賃を払うのが精一杯、食費にまわすお金はありません。

 

 

 それでも生きていられたのは、石森氏の、炊事係を引き受けていたからなのです。

 18歳の石森氏は、親元にいたため、自炊の経験がありませんでした。おまけに超多忙だったので、その時間もありません。当時はコンビニや、ファミレスもなかったので、外食も不便でした。

 

 そこで、時間はたっぷりあるが、お金がない赤塚さんと、時間はないが、お金はたっぷりある石森氏が、お互いの悩みを補い合うことにしたのです。

 

 石森氏が、食費をすべて出す代わりに、赤塚さんが、炊事をすべて引き受けたのです。

その流れで、アシスタントもすることになってしまいました。

 

 

 18歳の石森氏に、甲斐甲斐しく仕える21歳の赤塚さん。いつも二人が楽しそうにしているので、藤子不二雄のお二人は、その様子を「赤塚はまるで、石森の奥さんのようだった」と、述べています。

 

 ここからは、私の想像ですが。

 赤塚さん、エリートの石森氏と常に行動するのは、苦痛な面もあったはずです。

 

 赤塚さんは、石森氏の活躍を心から喜び賞賛しました。ところが、その裏には、エリートの石森氏には気づかない、暗い思いもあったはずです。

 

 石森氏の、運の良さ、才能や、経済力への嫉妬、怒り、それがゼロだったとは、とても思えません。

 

 何よりも苦痛だったのは、天才ぶりをまざまざと見せ続けられ、その度、すでに傷だらけになっていた「自信」が、さらにズタズタになったのではないか、と・・・。

 

 でも、人生が面白いのは、その石森氏が、赤塚さんの人生を大逆転するチャンスを運んで来ることになるのです。

 

 この時期の赤塚さんは、逆境に喘ぎながらも、夢へ努力は怠りませんでした。

毎晩、どんなに疲れていても、ギャグのアイデアをノートに書き付けるまでは、決して寝ないというノルマを課していました。

 

 そのアイデアを雑誌社に持ち込めば、充分に採用されたはずです。

 これは歴史が証明しています。

何しろ、その数ヶ月後には、ギャグ漫画家として大ブレークしたのですから。

 

 

死に物狂いの努力

 

 ところが、赤塚さん、

死に物狂いの努力が、

暴走してしまいます。

 

 「こんなアイデアでは、まだまだ不安だ、もっともっと、いいアイデアを作らなければ。もっともっとスキルアップしなければ」とますます自分にプレシャーをかけていきます。

 

 実は、努力の飽和状態なのだが、本人にはそれがわからない。努力すればするほど、ますます状況が悪化するという、「過剰品質」の罠に捕われていたのです。

 

 さて、いやいや描いた貸本漫画では、人気が出るはずがありません。ついには、その仕事さえも切られてしまいます。

 そうなると、家賃さえも払えなくなり、赤塚さんは崖っぷちまで追い詰められてしまいます。

 

 

 そんなある日、漫画家仲間の長谷邦夫氏に、こんなことを告白します。

「ボクね、石森氏と椎名町を歩いていると、いつの間にか電信柱と塀の間を歩いているんだ・・・・・いやんなっちゃう」。

病的な自信喪失状態です。

 

 ついには、将来を悲観し、漫画家廃業を廃業し、喫茶店のウエイターになろうとまで思い詰めます。

 

 切羽詰まった赤塚さんは、トキワ荘で、みんなから頼りにされていた漫画家、テラさんこと、寺田ヒロオ氏に苦境を打ち明けます。

 

 寺田氏は、赤塚さんの描きかけの少女漫画に目を通すと、おもむろにこう切り出します。

 

 

 「赤塚くん、ぼくだったら、この一本のストーリーで、五本の漫画を描くな」

 「やはり、詰め込み過ぎですか?」

 「そうだね」

 「・・・・・」

 

そして、

ついに、

ヒラメキがやってきます。

 

 

 

 

 

(^-^)ノ

赤塚不二夫さんの唸るヒラメキ

 

 

「そうか!自分の持っている、いいところを、全部出そうとしていたんだ」

 

 

 

 もし、あなたが、営業やセールスに携わっているのなら、このヒラメキ、あなたにも使えます。

 

 

 「自分の持っている、いいところを、全部出そうとしていた」

 

 

 これを、セールスに例えてみれば、すぐにわかります。

 

 セールスは、自信がないと、つい売り込みすぎてしまうのが常です。売らなければいけないという、強迫観念から出る緊張感。

 断られないようにという恐怖から、しゃべり続けなければいられない。何が何でも、いいところを、全部説明しようと、相手の気持ちや都合は無視しての大演説。

 

 

恋愛でも同じです。

 良く見せたいと、自慢と虚勢の押し売り。これだけ熱心なのだという、努力と誠意のアピール。それを相手に認めてくださいという、媚とへつらい。

 

 

 これでは、売れるはずがありません。これでは、モテるはずがありません。

 

 

赤塚さんは、自分の漫画は、媚とへつらい、虚勢と自慢だったと、一瞬で理解します。

 

 ここから、漫画を描く姿勢が一気に変わります。「読者を面白がらせる前に、自分が面白がろう」、「力を抜き楽しく描こう、その雰囲気が読者に伝わるはずだ」と。

 

 

 こんな名言があります。

 

『いい作品には、必ず媚びない誇りがあり、同時に包み込むような優しさがある』

 

            根本浩(文筆家、世界一受けたい授業の漢字講師)

 

みなさんが、出版のために、企画を立てるとき、ほとんどの方が、余りにも入れ込み過ぎています。

デビュー作に、自分の全てを盛り込もうとします。

気持ちは、とても良くわかりますが、その意気込みが過ぎると、何でもかんでも詰め込み過ぎの、うっとうしいものになります。

 

企画の視点が、とてもボケたものになります。

 

「企画は引き算」にする。

これを意識すると、採用される企画を作りやすくなります。

 

企画は、絞り込めば絞り込むほど、その分読者に深くささるからです。

 

逆に、たし算で考えてしまうと、鋭さがどんどん削られ、誰にも見向きもされない企画が出来上がります。

 

出版デビューするためには、思いきって引き算しまくると著者デビューが早まります。

 

デビュー作は、あえて、一点に絞り込んだものを書いた方が、出版社から採用されやすくなります。

 

ついに大ブレーク。

 

話を元に戻します。

 そんな折、石森氏の部屋に、秋田書店の名編集者、壁村氏が飛び込んできます。

来月号の漫画月刊誌「まんが王」に、穴が空いてしまい、ピンチヒッターを紹介してくれというのです。

それも、ギャグ漫画を描ける作家との注文です。

 

 石森氏は、即、隣の部屋の壁を叩き、赤塚さんを呼び寄せます。

壁村氏は、赤塚さんに「読み切りで、8pのギャグ漫画を、明日の朝までに仕上げて欲しい」と依頼をします。

 

ここで、ついに、ギャグ漫画を描くという、企画が立案されたのです。

なんと、「ヒラメキ」は、編集者と、石森氏が運んできてくれたのです。

 

「ヒラメキ」は、こうして、人が運んできてくれる場合もあるのです。

 

 

 あまりにも時間がタイトですが、赤塚さん渡りに船と喜んで引き受けます。

 そして、この時間のなさも、幸いします。充分にアイデアを練る暇がありません。裏返していえば、過剰品質に、なりようがないのです。

 

 ここで活きたのが、毎晩書いていた、アイデアノートです。

 「よし、これでいこうと」テーマが、瞬時に決まります。タイトルは「ナマちゃん」、生意気な男の子が主役のギャグです。

 

 

 赤塚さん、無心に、楽しく、リラックスして描きます。

 そして、2週間後・・・・。赤塚さんに掲載誌が送られてきます。

 初めて自分の漫画が、大手の雑誌に掲載されたのです。ドキドキしながら、ページをくくります。

ありました!

「ナマちゃん」

 

なんと、そのタイトルの上には、こう書かれていました。

 

〈新れんさいまんが!!〉

 

 一回だけの読み切りだったはずが、

編集部での評判が良く、連載に格上げされていたのです。

 

 赤塚さん、嬉し泣きをしながら、石森氏の部屋に飛び込みます。石森氏、我がことのように、大喜びしてくれます。

 

 ギャグ漫画家、赤塚不二夫誕生の瞬間です。

 

 

 有名になってからの赤塚先生、世間的には過激さばかりの、イメージが残っていますが、貧乏漫画家時代からの付き合いがある、丸山明氏(石森章太郎などを育てた名編集者)は、それに異を唱え、次のように述べています。

 

 「周りに気を使う赤塚は、ひとが期待するものを敏感に感じ取って、それに応えようと、少々オーバーでもふざけた演技をしていたのではないか」と。

 

 私も、その通りだと感じています。私が22歳のとき、赤塚先生から、アイデアスタッフにならないかと誘われ、仕事場に訪問させていただいたことがありました。

 

 赤塚先生は大先輩なのに、まだ新人の漫画家である私に、恥ずかしそうに、そして、とても丁寧に接してくれました。

そこには、テレビで視たような過激さは、ひとかけらもありませんでした。

とても繊細な気遣いのある方でした。

 私がその直後に講談社からデビューをしたため、その話は白紙になりましたが、今でも心に残っている、大切な思い出です。

  

  • 関連名言

 『正当以上の卑屈な努力までする必要はない』。

松下幸之助

 

 

 『勝ち負けは努力の要素で左右されるほど甘くない』

明石家さんま

 

 

『好きなことをやるのは当たり前。

だって、その方が頑張れるもの。

でも、それだけじゃダメ。

頭を使って、知恵を振り絞らないと。

成功するんだという強い意志を持って努力しないと』

水木しげる

 

 

「ヒラメキ」による、企画の立案は、今回ご紹介したような形でもやってきます。

 

ポイントは、常に何かを思い続けることです。

ただし、思い詰めないことです。

楽しい気持ちで、思い続けることです。

そんな雰囲気のところに、「ヒラメキ」は、訪れてきます。

 

それでは、また、お会いしましょう。

さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ

 

      おかのきんや拝