企画のアイデアが出ない。 そんなときの、企画をひらめかすためのヒント。
こんにちは、
のんびり出版プロデューサーの、
おかのきんやです。
いざ、
企画を立てようと思っても、
企画のアイデアがなかなか出なくて、悩んでいる。
という方も多いと思います。
きょうは、そんなときに、
企画をひらめかすためのヒントをお伝えします。
私は、企画を立案するためには、できるだけ、たくさんの引き出しがあったほうがいいと思います。
引き出しの数が多くなればなるほど、かけ算で、書けることが急激に増えてくるからです。
いろいろなひとの、人生を知るのも、
引き出しを増やす方法の一つです。
とくに、難問を解決した人の、人生プロセスには、
たくさん、触発されることがあります。
それが、直接、企画の立案に役立つわけではありませんが、
クリエイティブな部分が触発され、
企画の「ヒラメキ」を得ることが度々です。
今回は、そんな人たちの中から、
公務員・高野誠鮮さんの人生をご紹介します。
みなさんが、企画を立てる時の、ご参考になれば幸いです。
「難題」
あなたなら、
この「難題」どう対処しますか?
あなたは、あるプロジェクトのリーダーに任命されました。
ところが関係者は、「面倒なことは嫌だ」、「責任は取りたくない」と、誰も協力してくれません。
そのくせ、あなたがプランを立てると、批判ばかりします。
おまけに予算はゼロです。
そんな難題を、
実際に解決した人のエピソードです。
市役所の臨時職員に、上司から難題が突きつけられました。
「町おこしをせよ!ただし、おまえは臨時職員だから、予算はゼロだ」。
そんな、無茶ぶりを「やります!」と、受けて立ったのが、東京からIターンしてきた、高野誠鮮さんという若者です。
舞台は、能登半島の付け根にある、石川県の羽咋市です。
高野青年が、いざ町おこしに取り組むと、当事者の「無関心」や、関係者の「批判」で、四面楚歌。
ところが、そんな窮地を、ある「ヒラメキ」で見事に打破、町おこしを達成します。
その功績が認められ、正式職員に昇格。
高野さん、勢いに乗り、羽咋市の消滅しそうだった限界集落を世界中があっと驚く「ヒラメキ」で、
大活性化し、地域の救世主となりました。
いまや、マスコミから「スーパー公務員」と名付けられ、全国から大注目されている人物です。
すぐにでも、
「この町を離れたい」。
高校生の高野さんは、いつもそう思っていました。
高野さんの実家は羽咋市のお寺です。
何もない地方都市です、若者にとっては、夢も希望もありません。
だから、地元の高校を卒業後、都会に出るため、そして日蓮宗の僧侶になるため、立正大学に入学しました。
在学中に、雑誌のライターや、テレビの構成作家としてデビュー、当時、人気番組だった『11PM』などを担当しました。
ところが・・・、昭和50年、28歳の時、実家に呼び戻されます。
お兄さんが埼玉県に家を建てることになり、高野さんが、お寺を継がざるを得なくなったのです。
実家に戻ったものの、お父さんは、まだまだ元気。とりあえず、自分の食い扶持は稼ぐことにしました。ところがもうすぐ30歳、おまけに地方都市なので、就職先がない。
幸い、役所で臨時職員を募集していたので、そこに滑り込みます。手取りが6万8000円、日給3000円にも満たない薄給ですが、背に腹は代えられません。
華やかで、時間が不規則だったテレビ業界から、一転、堅苦しく、規則正しい、公務員生活を送ることになります。
初年度は税務課勤務、翌年には、教育委員会の、社会教育課に異動し、青年教育を任されます。
与えられた命題は青年団による、「町おこし」でした。
高野さん、「町おこし」について、
常々大きな疑問を持っていました。
それは、「町おこし」の掛け声ばかりで、一向に、何も動き出さない現実です。
これは、あなたの周りにも、同じようなことがあるはずです。
いざ新しいプロジェクトを始めようとすると、失敗を恐れ誰も行動しない。非難はするが、責任は取りたがらない。
そのくせ、見栄えのいい企画書を作り、何度も会議を開くが。議題は常に、先送りになる。
町内会から、大企業まで、どんな集団にも共通しています。
当時、竹下登首相(DAIGOさんの祖父)が発案した、「ふるさと創生一億円事業」により、日本中で「町おこし」がブームとなっていました。羽咋市でも、頻繁に「町おこし大会」を文化会館で開催していました。内容は、権威のある著名人を呼んで、講演させるだけです。肝心の「町おこし」は、いっこうに始まりません。
高野さん、その疑問を上司にたずねました。
「いつまで、市民大会や、会議ばかりを、何十回もやるんですか?」
「余計なこと言うな!」と一喝されます。
高野さん、若者らしいピュアな気持ちで反撃します。
「公民館を使って、青年団で、町おこしをやってみていいですか」
「やれるもんなら、やってみろ!」
「やります!」
「けれど、おまえは臨時職員だから、予算なんかつかんぞ!」。
高野さん、大見得を切ったものの、実は、泥臭いことと、グループ活動が大嫌いでした。青年団無用論者だったので、青年団活動をしたこともありませんでした。
しかも予算は、0円。
当事者の青年団はといえば、「青年団の活動に、補助金もくれない」、「新しい会館を作ってくれない」と、町のここが悪い、あそこが悪いと、文句ばかりです。
前門の虎、後門の狼。
さて、高野さん、
この難題どう解決するのでしょうか。
反撃開始
テレビの構成作家時代の経験が、このときに活きました。
「何かをやるときは、まず、情報収集が大事だ」という習慣が、身についていたのです。
図書館にこもり、2~5万人までの市町村で、「町おこし」に成功したところと、失敗したところを114カ所調べました。
すると、わかったことがありました。「町おこしとは、これだ!」という理念がしっかりしていた所は成功していたのです。それが、あいまいな所は失敗していました。
高野さん、青年団の有志たちと、理念を考えに考え抜きました。
そして出した結論がこれです。
『青年団は、評論家になってはいけない』。
その時点での青年団は、不平不満を述べ、あれこれ要求するが、自分からは何もしない、駄々っ子でした。そんな青年団は、町の大人からすれば、あってもなくてもいい、どうでもいい存在でした。
これでは、自分たちの要求を、大人たちに無視されても当然です。
町への不満の原因は、実は自分たち自身に問題があったのだと気付いたのです。だから、もう評論家は止め、自分たちで行動を起こすことにした。
まず、「町づくり」の成功例を見習い、理念を立てました。
目標は「気持ちの良い町」です。
お金がなくたっていい。道路が整備されてなくたっていい。近代的な施設がなくたっていい。
それでも、気持ちのいい人間がいるところが「気持ちの良い町」です。
「気持ちのいい人」、「気持ちの良い町」にするためには、目に見えない「心の部分」を、大切にしなければなりません。
そして、「ヒラメキ」がやってきます。
高野誠鮮さんの、唸るヒラメキ。
『だったら「心おこし」を最初にやらなきゃいけない』。
「心おこし」、別の言い方をすれば、「人を自ら動かす方法」です。
その神髄を、見事に喝破している人がいます。
『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 褒めてやらねば、人は動かじ』
山本五十六(連合艦隊司令長官)
高野さんも、まず、自分たちで、やってみせることにしました。
具体的な「心おこし」として、羽咋市の良いところ、誇れるところを青年団で探しました。町の人たちに取材したり、公民館で町の歴史を調べたりしました。
そして、青年団でお金を出し合い、『羽咋ギネスブック』という本を作り、市内の全戸に無料配布したのです。
すると、いろんな反響が出てきたました。
「うちの漬物は羽咋で一番うまいんだ。『羽咋ギネスブック』に載せてよ」などと、名乗りを上げる、人が続々と出てきました。それまで、「町づくり」や青年団に無関心だった人が、勝手に参加してきて、町のコミュニケーションが活性化してきました。
UFO伝説
さらに、高野さん、公民館で奇妙な公文書を見つけます。
羽咋には、お釜のような物体が、
自在に空を飛ぶ伝説があったのです。
これって、未確認飛行物体、UFOともとれます。
高野さん鳥肌が立ちます。なぜなら、UFOなら得意中の得意なのです。テレビ業界にいた頃、UFO評論家の矢追順一さんと、UFO番組に関わっていたからです。まさに天の助けです。
このUFO伝説を「町おこし」に活用しない手はありません。
とはいえ、こんな怪しげなプランに、真面目な役所が予算を出してくれるはずがありません。
これも、予算ゼロで決行することにしました。
そこで、お金のかからない、著名人に手紙でアピールしようという、レター作戦を開始します。
なんとも図々しい話ですが、当時、世界を動かしていた、レーガン、サッチャー、ゴルバチョフを始め120人のVIPに、「羽咋でUFOによる町づくりを始めました。感想と激励のメッセージをください」と、辞書を引きながら手紙を書き、町の郵便局から投函したのです。
驚くことに、ゴルバチョフ氏を始め、45%の人から返事が戻ってきました。
それを日本のマスコミに流すと、火が付き、一躍「UFOの町羽咋市」として認知されるようになりました。
さらに、高野さんのアイデアで、青年団の一員だったうどん屋さんで「UFOうどん」を発売。
するとこれが、週刊誌に取り上げられ大ヒット。
こうなると町の人たちが、ほってはおきません、勝手に「心おこし」を始めます。
UFOラーメン、UFOパン、UFOせんべいと、便乗する店が続々現れます。
その結果、経済的にも活性化する人が出てきて、ついに、市からの予算ゼロで、「町おこし」を達成してしまったのです。
高野さんは、これらの実績により、35歳のとき、ついに、正式の職員として採用されます。
ついに正規の職員
正規の職員になったあと、羽咋市長から「限界集落の神子原(みこはら)地区を、活性化して欲しい」という、厳命を受けます。
限界集落とは、何も手を打たなければ消滅してしまう集落です。原因は貧困です。村の平均年収が87万円という低収入、当時の、全国平均年収の5分の1です、これでは村が廃れて当然です。
高野さんが、調査をすると、実は、神子原地区のお米は、かつて日経BPの記事で、全国美味しいお米ベストテンの3位に選ばれたことがありました。
それなのに、こんなに貧しいのは、本来の価値よりも安い値段で、農協に買い上げてもらっていたからです。
そこで高野さん、農家の人を集め、お米の直売を提案します。
確かに直売にはメリットもあるが、リスクもあります。
またもや、集団の常。
農家の人々から、「批判」と「反対」の嵐です。
今までの経験で、それは織り込み済みです。そこで、自分で販売してみせると約束したのです。
さて、どう売るか。
高野さん、「神子原」という地名に着目します、神の子の原です。
そのとき、世界中があっと驚く奇策が「ヒラメキ」ます。
「ローマ法王に、手紙を出そう」。手紙の内容は、神つながりで、「キリストが住まう高原で出来た米を、献上させていただきます」。
またもや、レター作戦です。町の郵便局から手紙を出します。
3ヶ月後、驚くべきことに、日本のローマ法王庁の大使館から、OKの返事が来たのです。神子原のお米が、ローマ法王に献上されたニュースが、瞬く間に日本中に広がります。
その途端に、注文が殺到、ひと月で3000万円を売り上げました。
直売が成功したことにより、ぜひここで農業やりたいという、若者が増え、平成21年、ついに、
神子原地区は、限界集落から脱出したのです。
最後に、神子原地区の救世主となった、高野さんの言葉です。
『人の役に立つのが役人だ』
高野さんの生き方、いかがでしょうか。
もし、みなさんの、
クリエイティブな部分が触発されたのなら幸いです。
それでは、また、お会いしましょう。
さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ
おかのきんや拝