企画のアイデアが出ない。 そんなときの、企画をひらめかすためのヒント。その3
こんにちは、
のんびり出版プロデューサーの、
おかのきんやです。
前回に続き、今回も、
企画をひらめかせるためのヒントをお伝えします。
漫談家・綾小路きみまろさんの「ヒラメキ」
『次々と同世代が次々と出世、自分だけ芽が出ず、滅入っているときには』
あなただけが、出世レースに出遅れ、いまだに芽が出ず、焦り、滅入っているのなら、この名言を贈ります。
『人生において、「成功」は約束されていない。
しかし、「成長」は約束されている』
田坂広志 多摩大学大学院教授、元内閣官房参与。
芸人さんの、出世レースに出遅れた方がいます。
それも、30年間出遅れ、やっと花を咲かせることができたのです。52歳にして、[中高年のアイドル]として、大ブレークした、漫談家の、綾小路きみまろさんです。こんな毒舌ギャグを、一度は耳にされたことが、あるのではないでしょうか。
『出会った頃の妻は、
食べたくなるくらいかわいかった。
あれから40年。
今思うのは、あんとき食べておけばよかった』
『出会った頃は、
主人の顔を見ているだけで、
心がときめいたものです。
あれから40年。
今は顔を見ているだけで不整脈です』
綾小路きみまろさんの不遇時代
綾小路きみまろさんは、1950年に鹿児島で生まれました。小さなころから、人を笑わせるのが大好きでした。高校生のときに視たテレビ番組で、衝撃を受けます。当時、歌謡番組の司会をし、絶大な人気を誇っていた玉置宏さんの芸に魅せられたのです。テレビから流れる、玉置さんのことばを、紙に書き丸暗記するほど憧れました。
高校卒業と同時に上京、新聞配達をしながら、司会者を目指します。ところが、大卒でなければ、一流の司会者になるのは難しいと感じ、拓殖大学商学部に入学します。苦学生です、一気に生活が困窮します。
そんなとき、たままた配達先の病院で、キャバレーの営業部長している患者さんと知り合います。その人の口利きで、足立区のキャバレーに就職することができ、さらに、運よく、司会者に抜擢されます。経済的にも助かり、憬れの司会への道も拓けました。
キャバレーと、キャバクラ、似ていますが、いちばん大きな違いは、キャバレーでは、歌手や芸人によるショーがあることです。一流のキャバレーでは、メジャーな歌手や芸人も出演していました。
大規模なところが多く、ホステスさんの人数が100人以上いるところはざらでした。
当時の芸人にとって、キャバレーやストリップ劇場は、お客さんの前で芸を披露できる、数少ない舞台の一つでした。
場末のキャバレーですが、とにかく司会者になれたのです。きみまろさんは、ここから芸人としての人生をスタートさせます。時は、1970年、きみまろさんが二十歳のころです。
ところが、キャバレーで、女性目当ての酔ったお客と、ホステスさんを相手に、芸を披露するのは至難の業です。ステージの前列は、なぜか強面系の方が多く、ウケなければ、怒声と共に灰皿が飛んできます。
逆に、下手にウケ、ホステスさんたちが大笑いすると、それに嫉妬したお客の、芸人いじめがはじまります。きみまろさんも、真っ白なスーツに、醤油たっぷりの漬け物を投げつけられたことがありました。
そんな中で、鍛えられた芸人さんがたくさんいます。
ビートたけしさん、片岡鶴太郎さん、そして、ギター漫談で下積み生活を送っていたのが、今や大女優の、泉ピン子さんです。
そんなキャバレーでの下積みが10年ほど過ぎた、1980年代、突如として、MANZAI(漫才)ブームが勃発します。
ビートたけしさんをはじめ、
同世代の芸人さんが、
次々と大ブレークします。
きみまろさん、たけしさんには思い入れがあります、同時期にキャバレーの舞台を踏んでいたので、
たけしさんの素晴らしさをよく知っていたのです、同業者ですが尊敬していました。そんな、たけしさんに一歩でも近づきたいと、きみまろさんも、テレビ局のオーディションに挑戦します。
ところが、何度挑戦しても落とされてしまいます。
それを尻目に、同世代の漫才師たちが、次々とブレークしていきます。彼らを羨ましく思ったことが何度もありました。自分もテレビに出たい、有名になりたいと思いますが、自分には、その力量がないことも、わかっていました。何をやってもウケないのです、くやしいが、どうしようもありません。
そんなとき、「人生、多少の浮き沈みがあっても、みな平等に死んでゆく。人間の死亡率は100%だから」というような瞑想をしていると、肩の力が抜け、とても救われるような気持ちになれました。
それ以降、何度かのお笑いブームが起きましたが、その波にも乗れず、下積み生活が続きます。さすがに、「自分には、司会者の才能がないのかもしれない」と悟りました。もう、憧れの先輩、玉置宏さんの後を追うことは、あきらめました。
その代わり、路線を変更して、玉置さんには、できないことをやろうと思いました。そして、考え抜いた末、出た答えが、[漫談]だったのです。「そうだ、司会のなかで、漫談をやろう」と、このとき初めて、漫談を強く意識したのです。
自分の才能に疑問を持つ。
ところが、はたして自分に、漫談の才能があるかは疑問でした。
そこで、保険の為に手に職をつけることにしました。そうすれば、漫談がだめでも、とりあえず路頭に迷うことはありません。さっそく司会業の合間に、マッサージ専門学校に二年間通い、マッサージ師の資格を取得、しばらくマッサージ院で働いていました。
その漫談が、不遇を打破するための、布石となります。たまたま日劇ミュージックホールでやった漫談を、森進一さんが気に入ってくれ、約8年間、森さんの専属司会者に抜擢されます。それから小林幸子さんの、専属司会者を4年、そのあと、伍代夏子さんのショーでは、専属ゲストとして呼ばれ、漫談を披露するミニコーナーまでいただけました。
それが45歳の時です。
演歌の歌謡ショーに来るお客さんは、ほとんどが中高年です。観客に喜んでもうためには、中高年向けの話題にせざるをえません。ここで、観客の反応を見ながら、[ネタ]や、[間]を学び取っていきます。
そして、完成したのが、中高年漫談だったのです。
その漫談が予想外にウケました、その評判が広がり、地方の営業に、きみまろさん単独でよばれるようになりました。
初めて、自分の芸に、
自信と誇りを持てました。
でも、きみまろさんは、達観していました。50代も目前です、もう陽の当たる場所に出ることはありないと・・・。
でも、「売れなかったけれど、こんな芸人もいたんだ」という、生きた証を残しておきたいと思いました。
自費で漫談のテープを作り、「余生は、そのテープを売りながら地味に歳を取っていこう」と、自ら華やかな出世レースに、ピリオドを打ったのです。
漫談の録音は、地方営業にいったとき、今日は調子がいいぞと思った日に、その会場でおこないました。
テープが完成したものの、はなから、売れるとは思っていませんでした。これで収入を得ようなどという野心もありません。だから、欲しい人に無料であげようと思いました。それでも体裁上、とりあえず2千円という定価を付けておきました。
「さて、どこで、誰に配ろう・・・?」
無料で何かを配る場合、とりあえず誰かに配り、あとは運しだいということが、ほとんどだと思います。これだと、繁華街で配っているチラシのように、せっかく受け取ってもらえても、すぐに捨てられてしまう可能性があります。
別に、お金を稼ごうとしているわけではないので、それでも自己満足は満たせます。でも、それは、せっかくテープを作った自分自信にたいしても、それを聞いてくれる人にたいしても、とても無責任です。
それでは、お互いの大切な時間をドブに捨てるようなものです。
きみまろさんは、それを選ばず、自分にも、受け取る人にとっても、建設的な方法を模索しました。
言いかえれば、人も自分も尊重し、丁寧に扱いたかったのです。
同じタダで配るのでも、無責任に配るのとでは、心の姿勢が天と地ほど違います。
だから、テープの価値を感じてくれる人に配りたいと思いました。しかし、そんな人たちを探すには、手間と暇がかかります。その分、赤字になるのですから、タダ働きどころが、大幅な出費になります。でも、きみまろさんは、その手間と出費を惜しみませんでした。
最初に思いついたのが、老人ホームです。次に美容院、さらにヘルスセンターです。
でも、カセットデッキが必ずあるところでないと、だめだと気がつきます。
カセットデッキが必ずあり、おまけに、テープの内容にいちばん共感してくれる中高年の人ばかりが集まっている、そんな場所がないだろうかと、あれこれ模索しました。
そのとき、「ヒラメキ」がやってきます。
綾小路きみまろさんの、唸る「ヒラメキ」
「そうだ、観光バスで配ろう!観光バスは、カセットデッキがあるし、四十人乗っている・・・、
観光バスなら、タダで配っているうちに、お金を出して買ってくれる人も出てくるかもしれない」
観光バスの中で、テープをかけてもらうためには、その権限を持っている、バスガイドさんを攻略しなければなりません。そこで、バスガイドさんが、テープを貰って、得する理由を考えました。
このテープをかけている間、バスガイドさんは、おおっぴらに休憩することができます。おまけに、お客さんも、ありきたりな観光案内にうんざりしているときに、漫談を聞ければ、気分転換になり喜びます。一石二鳥です。それをガイドさんに、アピールすることにしました。
バスのお客さんには、漫談を聞いてもらえば、絶対に受けることは確信していました。すでに地方の営業で実証済みです。今川焼きと同じで、「うちのアンコは美味しいよ」的な感じです
現在、きみまろさんのライブは、チケットを売り出せば、あっという間に売り切れてしまうというプラチナチケットです。3000人は入る市民会館のライブが、常に満員の盛況です。そのライブと、ほぼ同じ内容のテープだったのです、ウケないはずがありません。
ガイドさんに、テープをかけるメリットと、その使い方までを、提案することにしました。
カセットテープはすべて、きみまろさんと、奥さんの手作りでした。カセットデッキは奮発して、5台購入しました。それでも、高速ダビングなどなかった時代です、一本ダビングするのに45分、さらに、箱詰め、シール張りの作業があるので、一日に50本作るのが限度です。
朝6時になると、きみまろさんが、車に積み、高速道路のサービスエリアに運んでいきます。そこなら、食事、買い物、トイレ休憩で、観光バスが向こうから集まってくるからです。
テープをガイドさんに渡そうとしていると、「勝手にものを売るな!」と係員の怒声。「タダであげているんです」と反論すると、怪しい宗教の勧誘と間違えられます。さらに観光バスの周りをウロウロしていると、やはり怪しがられ、ビビビビビ〜ッ!!とクラクションで蹴散らされます。
それにもめげず、何度も通い、ガイドさんや、運転手さんに、「タダで差し上げます。中身は面白い漫談です。バスに乗っているお客さまたちにピッタリの話です。BGMで流してもらってもいいし、お客さまが退屈したときに流してもらってもいい。とにかく聴いてみてください」と配りました。
しばらくすると、テープを聴いたガイドさんたちが、
「あのテープ、すごく面白かった!」
「お客さまも、大笑いしていた」と、口コミで、テープの面白さを、ガイド仲間に宣伝してくれたのです。それを聞いたガイドさんから、
「テープ、無料でくれるって聞いたんですけど、送ってもらえませんか?」と電話です。それどころか、乗客から、「テープを買いたい」という連絡が来ました。最初は、1〜2本の注文だったのが、「10本ください」「20本ください」と、注文がどんどん増えていきました。
タダのテープを配り始めてから、
一年目が過ぎていました。
その数は、ゆうに三千本を超えていました。
そんなころ、こんなファックスが届きました。
「きみまろさんのテープを聴きました。今回の旅行で、色々な観光名所を回ったけど、きみまろさんのテープが、いちばんの収穫でした」だんだんと手応えを感じ始めました・・・。
三千本のテープを無料で配りましたが、レコード会社には、持っていきませんでした。ふつうなら、いの一番に持っていくべきところです。採用してもらえる壁はとても高いかわりに、もし採用してもらえれば、宣伝から販売まですべてやってくれます。ある意味、いちばん効率的で、いちばん楽です。
ところが、きみまろさんさんには、まったくその気がありませんでした。なぜなら、それまでの苦境体験から、絶対に売れないと思っていたからです。
ところが、いつの間にか、人生の歯車が大きく回り始めていたのです。
「こんなに面白いのに、テレビにでないの?」
「テープをCDショップで売ったら」という、ファックスが、どんどん送られてくるのです。
その噂を聞きつけたレコード会社が、
「CDを出しませんか!」と、
声をかけてきました。
きみまろさん、あっさりと断りました。
CDを発売したら、必ずキャンペーンで、全国を回らなければなりません。すでに51歳、体力的にも精神的にも無理だと思いました。
それに、その頃になると、テープの注文が、一日に50本ぐらい、コンスタントに来ていたのです。2000円のテープが50本、一日、10万円です。ひと月の売り上げが、なんと、300万円になっていたのです。だから、あえて、レコード会社に頼る必要もなかったのです。
最初は、売れるはずがないと思っていたテープでした。タダでも、貰ってもらえないテープでした。それが、いつの間にか、
「お金を出しても、テープを欲しい!」
「ぜひ、CDを出しませんか!」という状況に大逆転していたのです。
レコード会社からオファーが来たのが、2002年の春。その秋にテイチクから、CDとカセットテープが発売されます。タイトルは『爆笑スーパーライブ第1集!中高年に愛をこめて・・・』
発売されるや、瞬く間にヒットチャートを駆け上がり、オリコンのヒットチャートの上位にランクイン。宇多田ヒカル、SMAP、浜崎あゆみ、たちと肩を並べます。
翌年には、100万枚突破という、異例の大ヒットとなりました。
さらに、書籍『有効期限の過ぎた亭主・賞味期限の切れた女房』も、27万部のベストセラー!
彗星のごとく現れた、無名の漫談家の快挙に、世間は「この中年男は何者だ!?」と、大騒ぎです。
あちこちのテレビ局から、出演以来が殺到、中高年のアイドルとうたわれ、大ブレークします。
きみまろさん、そのとき52歳、なんと下積み30年を経て、陽の当たる表舞台に躍り出たのです。
きみまろさんは、30年の時を経て、
なぜ大ブレークすることが、
できたのでしょうか?
きみまろさんの漫談の売りは毒舌です。それは、若い時も、現在も基本的には、ほとんど変わっていません。
しかし、誰にも否定できない、大きく変わったことが一つだけあります。
それは・・・。
30歳、歳を取ったということです。
一見、バカバカしいように感じられるかもしれませんが、これはとても重要なことです。
人生を季節に例えると、きみまろさんの季節が、盛夏(20代)から、初冬(50代)へと、移ろったのです。
「時を得る」という言葉があります。
同じ商品でも、売り出す時期により、その売り上げは大きく違ってきます。
ヒートテックを真夏に売っても、まずうれません。ところが、真冬に売り出せば、確実に売れます。
これが、「時を得る」ということです。
きみまろさんの芸は、ヒートテックなのです。
若いころの毒舌は、真夏のヒートテックだったのです。現在の漫談と同じようなことをしゃべっても、「若造のくせに生意気な口をきくな!」と、怒られました。
ところが、時を経て、きみまろさんご自身が、50代という、初冬に入ったことにより、時を得たのです。
人生の哀しみ、辛さ、悔しさ、喜び、哀しみを、味わい尽くした、きみまろさんの毒舌は、
中高年の心を暖かく癒す、「心のヒートテック」となったのです。
夢を抱いて上京・・・、
あれから40年。
きみまろさん、いまや、押しも押されぬ、一流芸人としての地位をしっかりと築き、ライブの予約は半年先まで埋まっているほどの人気を維持しています。
そんな人気者になっても、冷めているところがあります。いつ、テレビから、お呼びがかからなくなっても、かまわないと思っているのです。そうなれば、原点である、ライブに戻るだけです。
実際、今でも、ライブ主体で活動しています。
IT業界の友人が教えてくれました。
いま、もっとも儲かる価値の高いコンテンツは、ライブだというのです。
ハイテク時代の現代、歌やお笑いのコンテンツは、いつでもどこでも、ネットからダウンロードできます。それも、質さえ問わなければ、かなりのコンテンツが無料配信されています。コンテンツの価値がどんどん下がっているのです。
ところが、ライブだけは、コピーすることはできません、実演現場の空気をネット配信することはできません。その場に行かなければ、味わうことができない、アナログなことに、価値が出始めているのです。だから、ライブのコンサートや、講演会は、ネット配信のコンテンツと比べ、桁違いの金額を稼ぐことができるのです。
きみまろさん、巧まずして、結果的に最先端のビジネスを展開しているのです。
もちろん、ご本人は、そんなことはまったく思っていないはずです。きみまろさんは、ブレーク前の不遇時代に、野心を捨てていました。ブレーク後も、それがぶれていないのです。だから、人気やお金に、固執していないのです。
そんな達観している、きみまろさんが、高僧のように感じられるのは、私だけでしょうか?
きみまろさん、ご著書の中で、このように述べられています。
『私の夢は、富士山を見て、「いいな」とか「素敵だね」とかいってくれる人たちと、余生を楽しみたいということ。備長炭をおこしたいろりを囲んで、お湯を沸かしてお茶を飲む。それが最高の楽しみじゃないかと思っています』
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渡文明 わたり・ふみあき
石油連盟会長、経団連副会長などを務めた経営者。
『人間もなるべく晩成がよい。
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『人間は何事にも、出番を待つ間の修行が大切である。
そして、あせらず、怠らず、いつ出番が来てもいいように
容易万端ととのえておかねばならぬ』
石田退三
いかがでしょうか。
きっと、みなさんの、クリエイティブな部分が触発されたのではないでしょうか。
それでは、また、お会いしましょう。
さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ
おかのきんや拝