出版寺子屋 本を出す方法

このブログでは、本を出す方法を、 丁寧にお伝えします。 商業出版で本を出すことを目指します。 また、 「誰でも本を書ける」 「誰でも本を出せる」的な無責任な言葉で、 高額な出版プロデュースに 誘導するようなこともいたしません。 このブログは、 そのような怪しさとは一切無縁です。 そのことは、ハッキリとお約束します。

本を出すのは意外と簡単。 でも、二冊目を出すのは……

本を出すのは意外と簡単。

でも、二冊目を出すのは……

 

 

企画のアイデアが出ない。

そんなときの、企画をひらめかすためのヒント。その4

 

 

こんにちは、

のんびり出版プロデューサーの、

おかのきんやです。

前回に続き、今回も、

企画をひらめかせるためのヒントをお伝えします。

『折れた夢に、再チャレンジするときには』

 

歌手・馬場俊英さんの「ヒラメキ」

 

 

 

質問です。(^-^)ノ

 

 あなたが、著者になることを、目指しているとします。その場合。

 

 「デビュー作を出すこと」。

 

 そして。

 

 「二册目を出すこと」。

 

 どちらが難しいと思いますか?

 

・・・・・・。

 

 答えは、「二册目を出すこと」です。

 

これは、音楽の世界でも、まったく同じです。

 

 毎年、たくさんの歌手がデビューしていますが、二曲目を出せる歌手は、ほんの一握りです。一曲目が売れなければ、レコード会社が、「この歌手は売れない」という評価を下すからです。

 

 デビューすることは、二曲目を出すことより簡単です、レコード会社が未知数に賭けてくれるからです。

 でも、売れないとわかったとたん、手のひらを返すように態度が変わります。これはレコード会社の人が冷酷という訳ではなく、ビジネスの視点から見れば当然のことです。

 

 歌手は、デビューすることよりも、生き残っていくことの方が、遥かに難しいのです。

 

 

二冊目を出せる人は稀です。(^-^)ノ

 

 それは、出版業界でも同様です。一冊目を出すことは比較的簡単です。

しかし、二冊目を出せる人は稀です。

 ベストセラー作家の百田尚樹さんが、テレビでインタビューに答え、次のように述べていました。

「小説家は、生き残るのがめちゃくちゃ難しい。一冊目を出しても、それが売れなければ、二冊目の出版はない。二冊目を出せるのは、百人に一人だ。それほど生き残るのが厳しい」。

 

 どんな世界でも、未知数なら、相手に興味を持ってもらえます。

 ところが、一度悪い結果を出してしまうと、その評価を覆すことは至難の業となります。

 

 

 

 まさに、

そんな逆境を、

乗り越えた歌手がいます。(^-^)ノ

 

 現在、30代40代を中心に熱烈な支持を集めている、遅咲きのシンガーソングライター、馬場俊英さんです。

 

 さて、馬場さんはどのようにして、不遇な状況を一発逆転することができたのでしょうか?

 

 1996年、28歳の馬場さんは、フォーライフレコードからデビューを果たします。3枚のアルバムをリリースしますが、ほとんど売れず、四年目の2000年にリストラされてしまいます。

 

 しかし、馬場さんは諦めませんでした。まだ32歳です。四捨五入すれば20代、まだいくらでも可能性があります。

 

 

 メジャーがだめなら、CDの自費出版です、いわゆるインディーズです。

 さっそく、自宅で制作したCDを、かつて自分のCDを取り扱っていたレコード店に持ち込みます。

 

 しかし、どこへいっても、嫌な顔をされ追い返されてしまいます。レコード店の人からすれば、メジャー契約を打ち切られた馬場さんは、ただの素人です。おまけに、馬場さんのCDが売れないことをいちばん良くしているのが、現場の店員さんなのです、

 

 

 そのときの様子を、馬場さんはこう語っています。

「けっこうねえ、予想以上に言うんですよ。『うちじゃぁ、こういうの、いらなんだよ!』って。

そう言われると、『あなたいらないんだよ』って言われているような気がする。

CDがというよりも、自分自身がいる必要がないと言う風に聞こえるんですよね」

 

 

 

持ち込みはとても辛い体験でした(^-^)ノ 

 

 私も持ち込みの辛さは、身にしみて感じています。私の場合二十歳のときに、メジャー中のメジャーである、講談社から漫画家としてデビュー、35歳のときに戦力外通告を受けリストラです。

 その後、中小の出版社に持ち込みをしました。そこでの編集者の対応は、まさに、「あなたなんか、いらないんだよ」でした。

作品を否定されるだけでなく、人格そのものまで否定されているようで、暗澹たる気分になりました。

 

 だから、このときの、馬場さんの悔しさ、惨めさ、切なさが、とても良くわかります。

 

 馬場さん、そんな状況に負けまいと、弱気になる気持ちを奮い立たせ、新しい曲を作り続けては、レコード会社や、ラジオ局に、送り続けます。

 そして、歌を歌えるのであれば、どんな小さなイベントにも出向きました。

 

 そんな、先の見えない生活が、5年近く続きます・・・。

いつの間にか30代半ばです、四捨五入すれば40代です。

 

年を経るごとに、

再デビューへの壁が、

どんどん高くなっていきます。

夢が遠ざかっていきます。

 

 

 私は、マンガの連載を打ち切られ、先の見えない持ち込みを続けていたある時期、その苦しさから逃れるため、しばしば、このような妄想に逃避していました。

 

 それは、不遇を一発逆転し、突然人気作家になっている白日夢です。

 

「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(^-^)ノ

 

 夢に破れ、挫折している人は、誰しも同じ思いを抱くようです。

野球少年だった馬場さんは、自分の人生を、野球に重ね合わせ、その妄想を歌に昇華します。

 

 誰にも期待されていなかった選手が、満員の観客の前で、サヨナラホームランを放ち歓喜する、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」です。

 その一部をご紹介します。

 

一体誰があの日オレに一発逆転を想像しただろう?

でもオレは次の球をいつだって本気で狙ってる

いつかダイアモンドをグルグル回りホームイン

そして大観衆にピース!ピース!ピース!ピース!ピース!

そしてさらにポーズ!

 

※ボーイズ・オン・ザ・ラン 作詞・作曲 馬場俊英 より

 

 

 2002年、この曲が大阪のラジオ局のDJに注目され、馬場さんに大きな転機をもたらします。

ラジオ番組でオンエアされると、馬場さんと同じような、苦境、不遇にあえいでいる、30代、40代のファンから熱狂的に支持されます。

 

 馬場さんは、この曲で初めて、自分を必要としてくれるコアなファンを獲得したのです。

 

 さらに、この曲がきっかけとなり、2005年、フォーライフミュージックエンタテイメントと再契約。

ついに、メジャーな舞台で、再デビューできるチャンスを掴みます。

 

 

新たなる、

スタートライン。(^-^)ノ

 

 再デビューが決まったものの、それで、成功が約束されたわけではありません。希望が大きくなるほど、重圧も大きくなります。

 

 そのときの心情を、馬場さんはこのように語っています。

 「うまくいかなかった時間、すごく悔しかった瞬間・・・、そういうものが片手にあって。でもこれから、もう一度がんばるんだって言う、チャレンジしていくんだって・・・、そういうものが頭にあって」

 

 馬場さん、そんな自分をなだめ、励ますために、自分自身につぶやきかけます。

 

 

これからのことを思うと、負けそうになる・・・。

 

心配なことがあって、しゃがみそうになる。

 

あと少しだけ、もう少し、強くならなくちゃ・・・。

 

だけど、大切なことは、いつも、誰も教えてくれない。

 

 

 このとき。

 ヒラメキがやってきます。

 

 

馬場俊英さんの、唸るヒラメキ(^-^)ノ

 

 

 「自分自身に、つぶやきみたいに、書いているつもりが・・・、最後は、誰かにささやきかけているような、気持ちになっていた。チャンスは何度でも君の側に、そうだよなって」。

 

 

 自分への語りかけが、人への語りかけへと、変わった瞬間。

 それまでの曲に含まれていた、自己憐憫や自己陶酔が、昇華され、マイナーなオーラが、メジャーなオーラへと一転します。 再び、人生のスタートラインに立った馬場さんが、そのときに生み出した曲が、この代表作です。

 

 

「スタートライン」 

作詞・作曲 馬場俊英

 

もうダメさ これ以上は前に進めない

そんな日が 誰にだってある

 

だけど 雨でも晴れても何でもいつでも

その気になりゃ 何度でもやり直せる 何度でも

 

これからのことを思うと 負けそうになる

心配なことがあって しゃがみそうになる

あと少しだけ もう少し 強くならなくちゃ

でも 大切なことがいつも 誰も教えてくれない

 

だから そうだよ 

くじけそうな時こそ 遠くを見るんだよ

チャンスは何度でも 君のそばに

 

この道の先に何が待っているのかなんてこと わかるわけない

 

答えがあっても無くても YesでもNoでも

決めた道を行くしかないさ あるだろ? そんな時

 

青春と呼べた 時代は過ぎたのに

今でも心の奥に 風が吹き抜ける

優しい人にばかり 悲しみが降り掛る

救わらないことばかりが ここには多すぎる

 

だけど、そうだよ 

どんな時も、信じることをやめないで

きっと チャンスは何度でも 君のそばに

 

だから そうだよ

くじけそうな時こそ 遠くを見るんだよ  

見えない このスタートラインから また ここから

 

きっと そうだよ

いつかきっと 真心が何かに変わるんだよ

そうさ チャンスは何度でも いつも君のそばに

 

再スタートを切った馬場さんは、

一気に開花します。(^-^)ノ

 

メジャーなオーラを放つようになると、ファンの幅が大きく広がります。

 

 2005年、38歳。

 シングル『BOYS ON THE RUN 4 SONGS』で、念願のメジャー復帰。

 

 そして2006年、39歳。

 「スタートライン」が収録された、再デビュー後、初のアルバム『人生という名の列車』を発表。オリコンアルバムチャート、初登場29位を獲得。

 

 2007年、40歳。

 第58回NHK紅白歌合戦に初出場。

 「スタートライン~新しい風」を歌います。

 

 そのとき、28歳でデビューしてから、11年の歳月が流れていたのです。

 

 

 

 未だに夢を追いかけ、

延長戦を続けているあなたへ。(^-^)ノ

 

 できるものなら、20代で夢を叶え、早々に人生の勝ちゲームを掴むことが理想です。

 ところが、30代になっても、40代になっても、夢には手が届かない。

 それどころか、若さを失うと共に、夢がどんどん遠ざかってしまう。

 それでも、夢をあきらめきれずに、延長戦を続けている・・・。

 

 先の見えない夢、自分の才能と能力への懐疑、焦りと不安。

 私の場合、夢に手が届き始めたのは、60代を過ぎてからでした。だから、その心情が痛いほどわかります。

 

 何かを積み重ねていくことで、初めて才能を開花させた、遅咲きの人は、たくさんいます。

 

 漫画家の「水木しげる」さんは、貸本漫画家としての不遇の時代が長く、ヒット作を出したのは40歳を過ぎてからです。

 

 「やなせたかし」さん、に至っては、『アンパンマン』が大ブレークしたのは70歳を過ぎてからです。

 

 多くの人物インタビューを手がけるフリーエディターの高山渉氏は、遅咲きタイプの人はとても魅力的であると評価しています。その主旨を要約します。

 

「デザイナーやフォトグラファーなど、クリエイティブな世界において、最近30代後半や40代になって花開くクリエイターが増えている」。

 

「独創的な感性というよりはむしろ、何かを積み重ねていくことで生まれる感覚が重視される世界。中には、様々な職業を経験した後に、クリエイターデビューを果たす人も多い」。

 

「長い時間をかけて着実に夢を実現していく人ほど、自らの意思にブレがなく、仕事に対する姿勢も真摯である」。

 

「社会経験が豊富なので、コミュニケーション能力も高く、クライアントとも上手くやっていける」。

 

 さらに、年齢に関しては、なんとも心強いことを述べてくれています。

 

「世間自体が子供じみたことで、昔よりみんな10歳は幼くなっている。だから、今の30歳は昔で言うところの20歳。40歳は30歳、って考えると、40歳で世に出るのもなんら不思議なことではない」。

 

 だから、「もっと頑張ろう!」などという、紋切り型の励ましはしません。

 あなたは既に、心身をすり減らすほど頑張っているのですから。

 

 そのかわりに、最後にもう一度、「スタートライン」からの言葉です。

 

きっと そうだよ

いつかきっと 真心が何かに変わるんだよ

そうさ チャンスは何度でも いつも君のそばに

 

  

_________

 

いかがでしょうか。

きっと、みなさんの、クリエイティブな部分が触発されたのではないでしょうか。

 

それでは、また、お会いしましょう。

さよなら(^-^)ノさよなら(^-^)ノ

 

      おかのきんや拝